あまり知られていないが、実は善光寺は数字の「7」にまつわる故事や由緒をもつもの多い。
このページではその中の1とも言える「善光寺の七不思議」について述べるものとする。
長野善光寺の七不思議
「7」の数字にまつわるものが多い。
例えば、善光寺最大の行事である御開帳は7年に1度、善光寺七福神、善光寺7社、善光寺七井‥‥などがある。
本堂のほぼ中央軸上に開基たる本田善光とその息子・本田善佐ならびに、妻の弥生御前の尊像を並べて「御三卿」呼び習わして安置する。
冷静に考えると本尊が中心軸上に配置されるのが通例ではあるが、本尊は中心軸より外れた西奥に奉安されてい‥‥‥ハフぅん♡(新バージョン)
仏でもなく、地位や権力をもたなかった一般人でもある創健者・本田善光の名前をとって「善光寺」という名前が付けられている。
本田善光は存在しない人物だとされる見解もあり、存在性が問われる。そもそも古代において「本田善光」と言う名前を付ける慣習がなかったとする見解もある。
善光寺本堂を上から見るとシュモクザメの頭部のようなT字型の「撞木造り(しゅもくづくり)」と呼ばれる造りになっている。
何故、撞木造りにしなければならなかったのか?理由が明らかにされていない。
本堂に入って目の前に見える外陣には妻土台(つまどだい)と呼ばれる大きな台が置かれているが、日本中の寺院を例にとっても置かれているのは善光寺のみ。
これまで善光寺についての研究は歴史学上、それほどされて来なかったが、御三卿の像の右脇に安置される本田前項の妻とされる弥生御前は謎多き人物とされる。
仏でもなく、善光寺への貢献という面を考えても祀られている理由が不明。
物部守屋の首が真下に埋まっているとされる謎の角柱が存在する。
しかも本堂最奥の内々陣の中央に据えられている。
余談だが、「お戒壇めぐり」は守屋の柱の周りを1周する。
瑠璃壇の前には、創建以来の”消えずの火”と呼ばれる3つの常燈明(じょうとうみょう)が存在するが、存在理由のいっさいが未詳。
もしくは御本尊の白毫(びゃくごう/眉間にある白い毛)から放たれた光によって点火されたという由緒も謎。
秘仏本尊・善光寺如来(阿弥陀如来像)は百済聖明王(くだらせいめいおう)からの贈り物の仏像と伝わるが、日本最古の歴史文書と言われる「日本書紀」の記述によれば阿弥陀如来像ではなく、「釈迦仏の金銅像」が贈られてきたと記されてい‥‥申す。アヒョっ
善光寺と牛の繋がりは善光寺へ来たことがない人でも知っているほど有名な話だが、「牛に引かれて善光寺参り」という話は出どころ未詳、俗信の域を出ない。
そもそもなぜ牛なのか?牛といえば菅公と天神。一説に太宰府天満宮では菅公の他、安曇氏を奉斎し、また社に仕えた神人も安曇氏の末裔だとされる見解もある。
だとすると安曇氏が九州から当地へ渡ってきた際、牛を連れていた。もしくは渡ってきた後に牛を広めた。例えば牛を用いた農耕など。オホっ
秘仏本尊は本当に存在するのか?
絶対秘仏なので今まで誰も見たことがないと云われるが、実は史上、江戸時代と明治初期に開帳して検分した人物がいる。
だがしかし!
詳しい報告が為されていないため、その存在性が不詳とされる。
善光寺縁起によると、本尊は託宣によって奈良時代に秘仏とされ、その折、代わりの前立ち本尊が造立されたとするが、現在の前立ち本尊は学術調査の結果、鎌倉時代の作とされ、鎌倉時代に起こった火事の後から絶対秘仏とされたとの説もある。(本尊が燃えてしまってすでに無いという傍証に基づく)
御本尊を忠実に模して造立されたと伝わる御前立の阿弥陀如来像は奇異な姿態をしていて見方によっては阿弥陀如来像には見えない。
好例としては左手では人差し指と中指を伸ばし、今日では「刀印」と呼ばれる印相を組み、右手は施無畏(せむい)の定印をとる。
また両側の脇侍である観音菩薩および勢至菩薩が組む印相の形状は定形とは異なる。