まず、はじめに‥‥参拝者がご開帳で見られる本尊は前立本尊!真の本尊ではない
善光寺の本尊は絶対秘仏なので誰も見たことがない。‥‥とされる通説がある。
絶対秘仏とは単なる「秘仏」ではなく、絶対がつけられていることからも理解できるように「絶対的な秘仏」となり、言わば「誰も見れない」と云ぅことになる。
およそ鎌倉時代になると善光寺信仰が増大し、それに伴ぃ、絶対秘仏の本尊を忠実に模した仏像が作られるようになる。
その仏像こそが現在、我々が数え年で7年おきに拝むことのできるお前立ち本尊となる。
つまり、絶対秘仏の本尊は厨子(ずし)と云ぅ豪華な箱に収納されたまま善光寺の住職(最高責任者)を含め何人たりとも見れないことになる。
なお、有史上ではこの千数百年の間に片手で数えられるほどだが、絶対秘仏の本尊を見た人物がいると伝わる。
以下では善光寺の絶対秘仏の本尊とお前立ち本尊について述べてい‥‥‥申す。ヒデブっ(”秘仏”を表現したら北斗になった例)
読み方
- 一光三尊 阿弥陀如来像=「いっこうさんぞん あみだにょらい」
- 善光寺式 阿弥陀三尊像=「ぜんこうじしき あみださんぞんぞう」
長野善光寺「一光三尊阿弥陀如来像」
造立年
- 不明
※伝・飛鳥時代(白鳳時代)
像高(高さ)
【本尊】阿弥陀如来:約45㎝(1寸5尺)
【左脇侍(向かい見て)】勢至菩薩:約30㎝
【右脇侍(向かい見て)】観音菩薩:約30㎝
重さ
本尊:約24㎏(6貫300匁)
【左脇侍(向かい見て)】徳大勢至菩薩:約3.262kg(870匁)
【右脇侍(向かい見て)】観音菩薩:約3.262kg(870匁)
造立方法(制作様式)
一光三尊(俗称:善光寺式)
材質
閻浮檀金(えんぶだんごん)
作者
不明
※本尊は左右両腕が破損し、かろうじて宝冠を乗せた尊容を保つほどと伝わることから正確な重量は不詳とされる。
※以上の数値は1692年12月14日に当時、比叡山・天台座主も務めた東叡山(上野寛永寺)・現龍院の「敬諶(けいたん)」が老中並(当時)・柳沢吉保の下命により本尊を検分した時の報告に拠るもの。うきゃ
閻浮檀金(えんぶだんごん)とは❓
閻浮檀金とは単純に良質の金のこと。
「閻浮」は仏教で須弥山の取り囲む四大陸の1つである南大陸の「閻浮提」のこと。
「檀」は川。
閻浮提の大木の下には金塊があるとされ、その金を使用したことになる。
もしくは大木の近くを流れる川にも砂金があり、その砂金を使用したことを意味する。
なお、善光寺に伝わる善光寺縁起によれば「竜宮城の竜王」から閻浮檀金をもらい受け、それを鉢に入れると阿弥陀如来が自らが放つ五光を照ら当てて作ったと記される。
別名
善光寺の御本尊ならびにお前立ち本尊は、「一光三尊阿弥陀如来像」と呼ばれてい申すが、古来、別称で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれる。
善光寺の御本尊の簡単な来歴
善光寺の御本尊「阿弥陀三尊像」はインドから朝鮮大陸を経て、飛鳥時代(白鳳時代)に日本へ伝来したと伝わる。それゆえ「三国伝来の尊像」などとも呼ばれる。
一説に本像は日本最古の仏像ともくされ、我が国始まって以来、初の三尊形式の仏像ともなる。
元来、釈尊がインドの長者(毘舎離大城に暮らす富豪と伝わる)・月蓋(がっかい)に授けた尊仏とされ、星霜経て長者の生まれ変わりである百済の聖明王のもとへと移り、やがて日本に来て信濃の本田善光のもとへ渡来した。
本田善光が開いた善光寺に奉斎された後も長らく善光寺に留まることなく、戦国の勇「武田信玄」や「織田信長」、「太閤秀吉」に運ばせて全国各地へ遊行したり、出開帳では江戸は両国の回向院(えこういん)へ出向くなどして信仰を集めると、自らの分身を生み出し、さらに全国をかけめぐった。
その結果、全国に「善光寺」や「新善光寺」と名のつくお寺が数多く現存するに到る。
善光寺の御本尊の特徴
「一光三尊様式」とは❓
「一光三尊様式」とは、「一光=1つの光背(こうはい/仏像の背中にあるどデカイ輪っかのこと)」の中に左右2躯(体)の仏像が収まっている様式を云ぅ。
本像は中尊(中央)の阿弥陀如来の光背がが大きく作られ、その光背に左右の菩薩像が組み込まれてい‥‥申す。ピカっ(”一光”だけに)
このように1つの光背の中に3体の仏像が収まる様式は善光寺の本尊に見られる特徴的な様式であることから、特別に「善光寺式」や、「一光三尊様式」などと呼ばれたりする。
「善光寺式」とは❓
厳密に「善光寺式」と「一光三尊式」とは意味合いが少し異なり、「善光寺式」とは次に挙げるような特徴が備わった仏像を示すと定義される。
- 1つの大きな光背の中に3体の仏像が収まる様式
- 脇侍が梵篋印(ぼんきょういん)をポーズをとる
- 臼(うす)型の蓮台に乗る
- 刀印の定印を組む
これらの特徴を有する尊像を「善光寺式三尊仏」と呼びならわす風潮があり、実際、善光寺本尊の分身仏とされる仏像の中にも、これらの特徴を踏襲するものが散見され、それらの仏像は例外なく善光寺式と呼ばれる。
光背の中に三尊を収める様式は古式
このように1つの光背の中に3体の仏像を収める様式は、飛鳥時代は白鳳期に制作された如来三尊像に見られる大きな特徴となる。
代表例を持ち出すと奈良・法隆寺に伝わる「法隆寺献納48体仏」の1尊とされる一光三尊式の「如来および両脇待立像」になる。(現在は東京国立博物館 所蔵)
⬆️噂の「銅造如来および両脇待立像」(画像引用先:https://ja.wikipedia.org)
本像は三国時代(6世紀〜7世紀)に朝鮮大陸で造立され、その後、日本へ伝来したと云われる。
この他にも東京国立博物館(東洋館展示)には東魏時代(534年〜540年)の特徴を濃く醸す石灰岩で作られた高さ126㎝(中尊は75㎝)の一光三尊式の如来三尊立像が所蔵されてい‥‥‥申す。ニョリュゥァっ(”如来”をケンカ売る口調で表現)
⬆️噂の東京国立博物館所蔵「如来三尊立像」(画像引用先:国立文化財機構)
舟形の光背
舟形光背は他の仏像にも散見されるものだが、善光寺御本尊の光背は7体の仏が彫り込まれているのが特徴となる。
光背は「後光」とも呼ばれ、インド由来のものとされる。
仏にそなわる智徳が満ちて体外に光が放出される様子を表現する。これつまり、仏にそれだけの智徳がそなわっていることを意味するもの。オホ
舟形の光背をしている理由
前述したように舟形光背をよく見ると阿弥陀如来と両脇侍の菩薩以外にも阿弥陀の周りに7仏の彫像が見える。
これら阿弥陀如来、左右の菩薩、そして7仏が1つの船に乗って衆生(信奉者)を阿弥陀浄土(極楽浄土)へ導くべく、来迎(らいごう/迎えに来る)したことを示すと云われる。
立像姿
3躯とも立像姿で造立されてい‥ます。ピクっ
絶対秘仏
善光寺の御本尊は絶対秘仏とされ、原則、善光寺の住職(大勧進&大本願の管主)ですらお目にかられる存在ではない。
歴史上、見たことがあるとされる人物もいると伝わるが、片手で数えるほど。
中尊・阿弥陀如来像の左手
阿弥陀如来はいくつかの印相を持つが、立像姿の阿弥陀如来は通常、肩の高さまで右手を上げる「施無畏印(せむいん)」、左手は人差し指と親指を接触させて輪を作る「与願印(よがんいん)」を結んだ「施無畏与願印」もしくは「来迎印(らいごういん)」と呼ばれる印相をとる。
⬆️坐像姿の阿弥陀如来(写真は鎌倉大仏)は禅定印(阿弥陀定印)をとる
ところが善光寺本尊の阿弥陀如来は、施無畏印を取る右手は肩の高さまで腕を上げつつも五指を伸ばし、左手は与願印の風体を取りつつも指で輪を作らず、人差し指と中指を伸ばして他の三指を折りたたんでい‥‥申す。….ちょぃ考える余裕なぃ
この左手のポージング(印相)は「刀印」に近いものがあり、このような人差し指と中指を伸ばした印相は6世紀〜7世紀の如来像に見られる特徴とされる。
⬆️刀印 出典:http://gunsoh.fc2web.com/syugyo-2.htm
このような刀印は、法隆寺の近藤君‥ではなく金堂!!‥に安置される釈迦如来坐像に比定されるものがあり、…ふぅ 本像は人差し指と中指が伸びきってはいないものの刀印に近い印相をとる。
着目点は「親指」❗️
善光寺式如来像は親指を折り曲げて薬指と接触しているのに対し、同様の飛鳥仏とされる「法隆寺・釈迦如来坐像(国宝)」の親指は完全に伸びきって薬指とは接触がない。
善光寺如来の刀印は、やや特異な印相の取り方といえる。
同じく法隆寺金堂に安置される飛鳥仏として名高ぃ「薬師如来像」の印相も上掲、釈迦三尊像と同じ形が見られる。
刀印が善光寺信仰の核となった❓
善光寺信仰は平安中期になって一斉を風靡するが、善光寺如来の異例の刀印の取り方は同時代に造立された法隆寺に伝わる仏像とは比較対象にあり、日本の小金銅仏の作例としては古代においても類例が見られず、それゆえ特別視されるようになったとみられる。
刀印をしているのであらゆる宗派からの信仰も得られた
善光寺式如来は類例が見られない刀印をしていることから、宗派の概念に囚われることがなく、あらゆる宗派の信者からも信仰が寄せられた。
この異形の善光寺式如来の刀印は全国津々浦々、宗派や地域の垣根を超越した大いなる慈悲を授ける如来様と信仰される。
善光寺如来は像高50㎝以下の「小金銅仏」に位置づけられる
鎌倉時代になると、現在見られるように善光寺如来の前立ちの秘仏本尊が造立され、人々は7年おきにその秘仏を拝することになる。
その動きに倣い、最初に善光寺如来の分身仏も造立される運びとなったが、その第一号として造立されたのが甲斐善光寺にて奉斎される本尊如来像になる。
しかしながら、完成した本像は完全に善光寺如来の模造ではなく、姿態は似せど、像高(高さ)のみ147㎝と大きさは大きく異なるものだった。
以降、時代を下りながらもこのような大型仏は少なからず造立され、その作例を挙げると次のようになりゅ。うきゃ
大型サイズの善光寺如来が祀られる寺・一覧
- 広島県安国寺(本尊):1274年/像高171㎝
- 宮城県高清水町(現・栗原市)善光寺堂(本尊):伝平安時代後期/像高176㎝
- 岡山県勝北町金森新善光寺(本尊):伝1382年/像高108㎝
…..etc
全国に散らばる善光寺分身仏の平均総高は50㎝以下❗️
善光寺如来の分身仏は200体以上造立されたが、現存する善光寺仏(中尊)のほとんどは鎌倉時代に造立されたものであり、見つかっている23体のうち、等身大の2体を除いた21体の平均総高は43㎝とされる。
このうち45㎝〜50㎝までのものが15体あることが明らかにされてい‥‥‥申す。あかん腹減ってきた….ソウメン食べたぅぃ
中でも鎌倉円覚寺に伝わる善光寺式如来は秀作として世に知られる。
梵篋印(ぼんきょういん)を結ぶ左右の両脇侍像
両脇侍像は両手の掌(てのひら)を胸前で上下に重ね合わせ、宝珠を捧げ持つポーズをとっている。
ちなみにこの写真は善光寺の本尊如来様をモチーフとして造立された如来寺(福島県いわき市)に伝わる銅造阿弥陀三尊立像になる。(見やすいので使用した)
画像引用先:https://ja.wikipedia.org
言い伝えによると、手の中には真珠の薬箱を持つと云われる。
臼型の台座
三尊がそれぞれ、返り花・反り花の意匠を彷彿とさせる臼型の台座の上に乗るが、この台座は本田善光の自宅にあった臼の上に安置されていたという故事に倣ったものとされる。
なお、臼を逆さにして置くと死霊が家に帰って来なぅぃ(成仏する)、または穢れを祓ぅ呪力がそなわると云ぅ俗信もある。
その他の善光寺如来の姿態的な特徴
善光寺式三尊像は、オリジナルを忠実に模して造立されたお前立ち本尊像を見ているかぎり、いずれも6世紀〜7世紀(飛鳥時代・白鳳時代)の特徴を色濃く醸す。
例を挙げると次のようなものが列挙される。
- 頭部は宝冠をいただく
- 宝冠は六角形をした筒型のもの。山型の2種類みえる
- 中尊(阿弥陀如来)が衲衣(のうえ/着衣)を通肩(両肩を覆って着る)で覆い尽くす像容をとる
善光寺式如来像の起源(源流)
脇侍の菩薩像の宝珠奉持(梵篋印)のポージングを考察して南朝(中国)が源流とされる見解が強かったが、前述した中尊(阿弥陀)の刀印の取り方などを鑑みて、むしろ北朝(東魏)の影響が濃い見方がなされている。
善光寺の本尊が収められる場所
本堂の西側奥
ではいったい善光寺の本尊がどのような場所で、どのように保管されているのかが気になっているくるところ。
まず、善光寺の御本尊は本堂奥、本堂の中心線からやや西側の最奥に安置される。
前立ち本尊は平時は本堂にない!
前立ち本尊は重要文化財ということもあり、普段は大勧進の隣地に立つ善光寺の宝庫にて大切に安置されてい申す。ギャハンっ
ご開帳が始まる前日になると、「前立ち本尊御遷座式」と称する儀式が執行され、この時に宝庫から本堂内部へ移される。
仏壇が中央ではなく西側に置かれている理由とは❓
通例であれば、本尊格の仏像は本堂(金堂)の中心軸上に奉安されるものだが、善光寺の場合、当寺を創建した本田善光の自宅を拡張する形で現在の善光寺の規模に至ったことを証明するものとなる。
つまり、もともと本田善光の自宅では現在のように西側の奥で、まるで一般的な仏壇のように奉祀されていたことになり、どれだけ規模を拡張しようが、その様式を忠実に踏襲したことになる。
この本尊の配置のコダワリように善光寺信仰の偉大さと、その信仰の髄というものを見出せるのではないだろぅか。オホ
本尊の保管方法
善光寺の本尊は厨子(ずし)と呼ばれる絢爛豪華な木箱の中に収められてい‥‥‥申す。キビャっ
この厨子は空殿(くうでん)と呼ばれる徳川5代将軍・綱吉公の母ジャである桂昌院(けいしょういん)が寄進した豪華な入れ物の中に収められてい‥‥‥申す。
空殿の大きさは高さ160㎝、四方(各面の横幅)91㎝。四面それぞれには繁栄の象徴とされる孔雀や、支配者を象徴する龍などの透かし彫りが彫り込まれた扉が取り付けられ、厨子の前面と後面にのみ錠(鍵)が取り付けられてい‥‥申す。
この空殿の扉を開けると内部に上述の本尊が収納された小さな厨子がポツンと置かれいて、本尊はその厨子の中で綾錦金襴(あやにしききんらん)などを用いた錦の布に7重に包まれるようにして安置される。
また、厨子は白い布で包まれており、万が一の有事の際にでもランドセルのように背負って、いつでも持ち運びができるようになってい‥‥‥申す。ランスゥェっ(”ランドセル”を表現) …あんた何がしたぃねん
厨子の白い布の正体
厨子の白い布には「元禄五年 東叡山 現竜院 別当 本孝」と記された銘文が見つかったとのこと。
この元禄五年(1692年)が示す意味こそが、冒頭で述べたように、この年に厨子を開いた事実を告げるものであり、厨子を開けた後になされた封印こそが、まさにこの白き布になる。
つまりこの白き布の正体とは、本尊が安置される厨子の扉を開けた人物が居た事実と、本尊の実在性を世に知らせるための証拠とも成り得る、極めて重要な存在といえる。
善光寺では毎日3回もご開帳が行われている❓
なんとぉぅ!実のところ善光寺では毎日3回、御本尊が安置される厨子の開扉して勤行(読経)が執行される。
ただ、開扉とはいえ、厨子の前(瑠璃壇)に垂れ下げる布(戸張/とちょう)を一重上げるのみ。
この瑠璃壇の戸張は手前が「鳳凰」、その奥の戸張は「龍」があしらわれていて、ご開帳中の朝の勤行(お朝事)や法要の時などに戸張が昇降し、龍・鳳凰ならびにその奥にある金色に彩られた瑠璃壇を一部を見られる。
なお、瑠璃壇を見るためには本堂の内部拝観券が必要になる上、ご開帳中は大勢の人が押し寄せるため数時間にも及ぶ待ち時間が生じることがある。
長野善光寺「一光阿弥陀如来像(お前立ち本尊)」【重要文化財】
造立年
- 不明
※伝・鎌倉時代
像高(高さ)
【中尊】阿弥陀如来:約42.4㎝
【左脇侍(向かい見て)】得大勢至菩薩:約30.5㎝
【右脇侍(向かい見て)】観世音菩薩:約30.2㎝
造立方法(制作様式)
一光三尊式(俗称:善光寺式)
材質
鋳銅製(金メッキコーティング)
作者
不明
重文指定年月日
1908年(明治41年)4月23日
材質と造立方法
本像は少量の広瀬‥‥ではなく、錫(すず)!!を混ぜ合わせて鋳造した青銅(せいどう)を用いて、その上から金メッキでコーテンィングを施して完成された仏像となる。…ふぅ
本尊脇侍「勢至菩薩」と「観音菩薩」の見分け方
善光寺式如来の脇侍の勢至菩薩と観音菩薩は、いずれも胸前で両方の手の平を上下に重ね、まるで老舗店に超悪オデェ官さま(訳:代官)が来店した時に超悪店主がとるようなポージングをしているのに気づく。
⬆️これはこれはオデェ官さま。ヒェっ、ヒェっ、ヒェっ…..。
同じポージングをとるので双方の仏像を知らない人であれば、その見分け方について疑問が生じたかもしれなぅぃ。
そこで見分け方を解説しておくと、まず、それぞれの脇侍の宝冠に刻まれた模様(デザイン)をよく見れば分かる。
ちなみに上掲写真は善光寺式の本尊を忠実に模して造立された分身仏となるので、以下はさらに見やすくするために同じ分身仏である円覚寺(鎌倉)の善光寺式如来像で解説を進めたいと思ふ。
「観音菩薩」の見分け方
たとえば、向かい見て右側の菩薩は宝冠中央部に「如来像」の陰刻が見える。
如来の姿を彫り込んだ宝冠をいただくのは観音菩薩(観世音菩薩)を示す特徴となる。
「勢至菩薩」の見分け方
逆に左側の菩薩は宝冠中央部に「瓶(びん/水瓶)」の陰刻が見える。
ニンニク(水瓶)を彫り込んだ宝冠をいただくのは勢至菩薩を示す特徴となる。
善光寺三尊像の両脇侍が「宝冠」を被っている理由
このような宝冠を被っている理由は、まさにぅぃ!その源流がインドにあり、宝冠をド頭をいただくインドの王族が悟りを求め修行に明け暮れたことに基づく。
仏教の開祖である「釈尊(釈迦)」や座禅(禅宗)の開祖「ダルマ」ももとはインドの王族だった。
なお、数ある仏像の中でも、このような宝冠をかぶるのは、ほぼ菩薩に限定される。
これは如来になるための修行中であることを示すもの。もしくは菩薩を尊崇するための荘厳宝具とも云われる。
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