善光寺の周辺付近には、ある名前の住人が数多く住んでいるという噂がある。
その名前とは「若麻績」という名前になるのだが‥‥、はてして、この噂は真実なのか❓
以下ではこの真相について迫ってい‥‥‥申す。アヒャっ
まず、「若麻績」とはなんて読む❓
「若麻績」という名前は非常に珍しく、読み方に戸惑う人も散見されるが、通常は「わかおみ」と読む。
他に「わかませき」「わかまづき」とも読まれることもある。
なお、この「若麻績」というのは「姓」の方であり、例えば善光寺を創建した人物は本田善光と言うが、この人物は別称で「若麻績東人(わかおみ あずまんど」とも呼ぶ。
「若麻績」の名前の由来
現在までの通説では善光寺を創建した本田善光その人が、現在の善光寺が建つ場所(長野県長野市元善町)に移り住む前に「信濃国 伊那郡 若麻績里」に住んでいたことが、どうやら由来となっている模様。
「麻績」の由来・意味
若麻績里の「麻績」の意味とは、「麻」は植物の「麻」を指し、「績」は「つむぐ=糸を引き出す」となり、これらを組み合わせた言葉が「麻績」となる。後世の研究によると、本田善光(若麻績東人)が居処した土地は麻の生産地だったとされる。
それで実際にどれくらい「若麻績」がいるの??
善光寺には現在、宿坊を含めた40近い支院が存在し、その内の約15寺ほどの住職の名前がなんと!「若麻績」だと云われる。
さらにこれらの住職は半ば世襲制を採っているので、代々「若麻績」氏を名乗っていることになる。
そもそも寺の住職というのもは元来、教義によって妻帯することは禁じられていて、世間的な常識を鑑みて妻帯するならば還俗しなければならなかった。
しクぁし!
現状に散見されるような子孫へ代々継がせるという世襲制がごく自然とされるようになったのは、1872年(明治5年)4月25日の太政官布告133号によるもの。
江戸時代以前の寺が頻繁に廃絶に追い込まれた理由として世襲制が無かった背景は無視できないが、現在の寺は檀家制度が成立していることもあって、江戸時代のようなドミノ倒し状に潰れていくことは早々にないといえる。うきゃ
以下は善光寺を創祀した若麻績東人(本田善光)とその息子とされる若麻績作留(本田善佐)以後、15代まで世襲された若麻績の氏族をまとめたもの。
初代 | 若麻績東人(本田善光) | 6代目 | 若麻爾国依 | 11代目 | 若麻爾利成 |
2代目 | 若麻績作留(本田善佐) | 7代目 | 若麻爾高倚 | 12代目 | 若麻爾寛膳部 |
3代目 | 若麻爾諸身 | 8代目 | 若麻爾大国 | 13代目 | 若麻爾高雄 |
4代目 | 若麻爾意比 | 9代目 | 若麻爾東世 | 14代目 | 若麻爾正常 |
5代目 | 若麻爾当世 | 10代目 | 若麻爾広道 | 15代目 | 若麻爾時国 |
15代以降、26代まで「丈部」の姓が見られる。
若麻績が「若麻爾」に変わっている点に注目!
通説では初代・本田善光の子孫が現在までの善光寺と如来像を護り続けているとされるが、若麻”績”が→若麻”爾”へと一部だけ改称されたのには理由があって、一説に善佐の子孫が3代目を世襲したわけではなく、聖徳太子の子孫ならびに血族が首長に就任する運びとなり、その時に区別する意味合いで若麻爾を名乗ったという説がある。
以上の見解は善光寺縁起の作者が裏・善光寺縁起として密かに語り継いだ別説の善光寺縁起の一端とも目されているが、この裏・善光寺縁起によると、本田善光なる人物は存在しないとし、つまりはその子である本田善佐も存在しない人物になる。
なお、善光寺大本願の公式では善光寺を創祀したのは「尊光上人」であるとし、その尊光上人の正体とは聖徳太子の2番目の妃である「刀自古郎女(とじこ の いらつめ)」であるとする。
ところで‥「若麻績」さんの居住者数は?
この「若麻績」の姓を持つ人々は、日本全国でも長野県だけに集中し、それも善光寺・長野市内に集中している様子が見られる。
ただし、何人くらいが在住しているか?‥‥などの詳しい人数までは把握できないが、善光寺の関係者やその家族・親戚などを見るかぎり、両手では数え切れないほどいることは確かである。
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