善光寺を創建した人物とはいったい誰❓
本田善光の創建説
善光寺の歴史を語る上で正当な歴史書とされてきた善光寺縁起によれば、善光寺を創建した人物は「本田善光(ほんだよしみつ)」とされる。
一般的にも善光寺の「善光」は本田善光の名前を頂戴して名付けられたとする認識が通説となってい‥‥ます。ふぅ
善光寺縁起によると、本田善光は信濃国 伊那郡の恒川官衙に務めていた官吏(朝廷の役人)と伝わる。
推古天皇8年〜10年(600年〜602年)に信濃国司に随伴し、当時、大和(奈良)にあった都への上京の途についた。
その折、難波の堀江(現在の大阪市西区北堀江)にある和光寺の阿弥陀池にて偶然にも捨てられていた仏像を見つけて、これを崇仏(祀りたい)としたい旨を朝廷へ願い出て勅許を得る。
しクぁし!
仏像を自宅(信濃国 伊那郡 若麻績里)へ持ち帰ったものの、貧家だったので祀る場所が見当たらない。そこでとりあえず臼(うす)の上に仮安置して大切に供養した。
するとある日のこと、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに、なんとぉぅ!仏像の台座となった臼から急に五光が射しはじめ、霊験を感得した善光は仏像が無量無辺の尊像であることを知り、自宅を寺として寄進し「坐光寺(ざこうじ)」と号した。
皇極天皇元年(642年)、時の天皇(女帝)である皇極帝の勅命によって本田善光の自宅が新造されると、善光は自宅兼、寺とし、「善光寺」と名付けた。
善光一家が引っ越すと同時に尊像も善光寺(長野市元善町)へ移され、これが現在の長野善光寺の創建とされる。
尊像は以後、「一光三尊式阿弥陀如来像」、通称「善光寺如来」などと呼ばれ、多くの人々よりの尊崇が寄せられるようになる。
伊呂波字類抄による説
伊呂波字類抄によると642年、本田善光の夢枕に秘仏本尊(善光寺如来)が立ち、「私を当国の水内郡へと移すべし」と夢告したと云われる。
ところが善光は赤貧(クソ貧乏という意味)だった境遇もあり、自力で引っ越しして建物を建てるなどできなかった。
そこで同国諏訪郡武井社、下諏訪(諏訪大社)の春宮と秋宮それぞれの社人を中心に、北野、高島、宮本、平手、和府、関根、七沢、穂谷、金沢、柄沢などの社家15名(現在の中衆の15人)が合力し、何とか現在地に秘仏本尊を移したと伝わる。
以後、秘仏本尊が年越しを迎える際には「神衣」と呼ばれる「麻の浄衣」を着用して規式が執行され、供養する。
尊光上人の創建説
平成20年に善光寺大本願が公表した公的資料によると、「善光寺の初代上人は尊光(そんこう)である」とする。
大本願によると善光寺は皇極天皇の御代となる皇極年間に尊光上人によって創建され、その尊光の正体とは聖徳太子の2番目の妃と伝わる「刀自古郎女(とじこの いらつめ)」とされる。
この大本願の資料には次のような内容が記される。
642年から644年(皇極年間) 尊光上人は信濃に下向し、善光寺を創建した。尊光上人は「刀自古郎女」と言われ、聖徳太子妃であり、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の母ジャにあたる。‥‥と。
善光寺の歴史(略年表)
飛鳥時代
年 | できごと |
552年 | 百済より仏像と仏教が日本に伝来す。この時、百済王が日本の王(欽明天皇へ)献上した仏像こそが、善光寺秘仏如来像と伝わる。(仏教公伝については538年説はじめ、諸説あり) |
602年 | 本田善光により信濃国 伊那郡 麻績郷 宇沼村に創建す。(諸説あり) なお、当時は「坐光寺(ざこうじ)」と号した。 |
642年 |
勅命により本尊が芋井の里(現在の長野県長野市)に新造された寺へ移される。 この寺は本田善光の名を頂いて「善光寺」と名付けられる。 |
652年 |
善光寺如来の託宣により秘仏とされた。(諸説あり) |
685年 |
天武天皇が諸国の郡司たちに対して仏教奨励の詔を出す。 |
756年 | 唐の玄宗皇帝が妻・楊貴妃の菩提を弔うために日本へ使節団を派遣。 信濃・善光寺に自筆の「大般若経」を奉納させたという伝承がある。 |
768年 |
現行の「善光寺縁起」の起源とも云われる「古縁起」が成立す。 |
奈良時代
年 | できごと |
809年 |
本堂が焼失す。 |
888年 | 仁和の洪水で水内郡はじめ、六郡が甚大な被害を受ける。 |
平安時代
年 | できごと |
950年頃 | この頃に成立した「僧妙達蘇生注記」に善光寺の僧「真蓮」が登場す。 |
1114年 | 信濃国・善光寺の別当の従者らが京都法勝寺の寺領内で狼藉を働く。 |
1118年 | 寺門派の僧「聖厳」が別当に補任される。四天王寺権別当も兼務す。 |
1145年 | 大勧進の写経が成立する。 この頃、扶桑略記、伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)による善光寺縁起が成立す。 |
1179年 | 3月24日、仏壇・厨子を残して全焼す。 |
鎌倉時代
年 | できごと |
1187年 | 源頼朝が信濃の御家人衆に善光寺再建を命じる。 |
1191年 | 伽藍主部の再建が成り、落慶供養が厳修される。 |
1193年 |
虎女が出家す。善光寺に詣でて曽我兄弟の菩提を弔う。 |
1195年 |
源頼朝が善光寺参詣を計画す。 定尊が感得仏を造る。この頃より善光寺分身仏が盛んに造立されるようになる。 |
1197年 | 大日本古文書などの記録によると、この年、頼朝卿自ら善光寺へ参拝したと伝わる。 |
1210年 |
善光寺地頭職の長沼宗政が更迭される。園城寺の起請ならびに非法を幕府へ訴えた住僧に拠るもの。代わりに窪寺氏ら4氏が奉行に選出される。 |
1214年 |
親鸞聖人が参詣す。(伝) |
1237年 | 証空が宇都宮泰綱と図り、当麻曼荼羅の模写を奉納す。 五重塔(現存せず)が完成す。 |
1239年 | 鎌倉幕府・執権「北条泰時」が小県郡室賀郷を善光寺へ寄進す。 弟の名越朝時は善光寺に金堂を奉建す。 |
1241年 | この年以前に鎌倉名越に新善光寺が創建される。(現存せず) |
1246年 |
3月14日、名越氏一族主催による落慶供養が実施される。 |
1253年 |
建長5年、北条重時(連署)が修繕供養をす。 |
1263年 |
執権・北条時頼が水内郡深田郷を寄進す。 |
1265年 | それまで在地有力者たちによって一元管理されていた善光寺の奉行人制度が廃止され、以下4人の善光寺奉行が解任される。 🐮和田石見入道仏阿 🐮窪寺左衛門入道光阿 🐮原宮内左衛門入道西蓮 🐮諏訪部四郎左衛門入道定心 |
1268年 |
火事により焼失す。 |
1271年 | 須坂の豪族・井上盛長の放火により全焼す。 如来堂が再建される。 |
年 | できごと |
1274年 | 一遍上人が人生初となる来寺す。二河白道の図を写す。 |
1277年 | 鎌倉幕府・連署の北条義政が突如、出奔し善光寺へ参拝す。その後、小県郡塩田に移り住む。 |
1283年 |
沙石抄(しゃせきしょう)が編纂される。善光寺や戸隠を題材とした話が数多く掲載される。 |
1290年 | 後深草院二条などの女性の集団が碓氷峠(うすいとうげ)を越えて来寺し参籠す。 |
1298年 | 遊行二世の他阿真教が七日間参籠す。 |
1313年 | 金堂や鐘楼が焼失す。梵鐘は同年のうちに鋳造される。 |
1314年 |
前年に焼失した善光寺が再建される「善光寺飛柱記」が成立す。 |
1323年 | 善行寺門前に住む仏工の妙海が伊那郡宮所氏の発願によって十一面観音像を造立す。 |
室町時代(南北朝時代)
年 | できごと |
1370年 | 伽藍主部が焼失す。本尊は類焼を免れる。 |
室町時代(戦国時代)
年 | できごと |
1400年 | 新任の守護「小笠原長秀」が善光寺に参詣す。 その後、横山城へ入城し、執務を行うが国人の反発を買い、合戦となる。(大塔合戦) 大塔合戦後、善光寺妻戸衆が死者の菩提を弔う。 |
1427年 | 東門脇の念仏房から出火があり伽藍が全焼す。 本尊が横山(現在の城山)に遷座す。 |
1465年 | 山門派の僧で二条派の歌人である堯恵が参籠す。ついで戸隠寺奥院へも参詣す。 |
1468年 |
善光寺住職・善峰が対馬の宗 貞国を通じて李氏朝鮮と交渉す。 |
1469年 | 慈観上人を本願とした五重塔が再建される。 |
1474年 | 伽藍主部が焼失す。この時、前立本尊も頭部を残して焼損したという説あり。 |
年 | できごと |
1495年 |
北信濃の豪族・村上政清と高梨政盛・澄頼とが善光寺を巡る争いの末、焼失す。高梨氏が本尊を本拠地に持ち去る。 |
1502年 | 戒順が摂津堺北荘にて勧進した前立ち本尊(重文)の修理が完了す。 |
1505年 | 英多荘(現在の長野市松代町周辺)にて4巻本の善光寺縁起が書写される。 |
1518年 | 能登七尾城に滞在中の冷泉為広が越後府中を経て参詣す。 |
1531年 |
4月、善光寺造営図8幅が完成す。(現・大勧進所有) |
1555年 | 武田信玄晴信が善光寺から仏像・仏具を持ち出す。 |
1558年 |
武田信玄晴信、仏像・仏具を甲斐善光寺へ運び込む。 |
1572年 | 甲斐善光寺の金堂が完成し、鏡空上人を導師として落慶供養が厳修される。 |
1579年 |
太閤秀吉が京都・方広寺へ善光寺如来を移す。 |
安土桃山時代
年 | できごと |
1581年 | 上杉景勝が妙観院を越後府内善光寺の大勧進に補任す。 |
1582年 | 武田氏滅亡後、本尊が織田信長によって美濃へ移され、ついで尾張、遠江を転座す。 |
1583年 | 本尊が徳川家康によって三河を経て甲斐善光寺(新善光寺)へ戻される。 |
1597年 | 太閤秀吉の要請にて本尊が甲斐善光寺から京都の方広寺大仏殿へ遷座す。 |
1598年 | 太閤秀吉が罹った病は本尊の祟りだとされ、秀吉の命によって本尊が信濃へ帰還す。 |
1600年 | 豊臣秀頼が本堂ならびに本尊を修理す。 |
1601年 | 徳川家康公が善光寺に千石の寺領を寄進す。 |
江戸時代
年 | できごと |
1603年 | 大久保長安が朝日山を造営料に定める |
1632年 |
梵鐘が奉納される。(「寛永九年」の刻銘あり) |
1642年 | 西町から出火があり如来堂(本堂)が焼失す。 その後、本堂の再建をめぐって大本願が大勧進の非法を寺社奉行へ訴える。 |
1643年 | 天海僧正が善光寺を寛永寺の直末寺とす。 七か条の掟を下知す。 善光寺定目が制定される。 |
1661年 | 信濃一国での勧進活動が認められる。 |
1666年 | 三度目の仮本堂(寛文の如来堂)が完成す。 |
1683年 | 寺領総検地が認められる。 |
1686年 | 衆徒・中衆・妻戸はいずれも大勧進の下知に管理下に置かれる。 |
1692年 | 本堂再建のための出開帳が寺社奉行から認可される。 江戸両国の回向院にて最初の出開帳が執行される。 また、この年、秘仏本尊像の有無が問題となり、寛永寺から遣わされた役僧が本堂内部の厨子を検分す。 |
1697年 | 現在の寺領に対しての境内再建が実施される。 |
1700年 | 善光寺町から出火す。 仮堂や普請用の用材が焼ける。 本堂再建の一環で幕命にて柳沢吉保の甥・慶運が別当、吉保の娘・智善が大本願上人へ入山す。 |
年 | できごと |
1701年 | 江戸感応寺(かんのうじ)で出開帳の後、1706年まで回国開帳す。 |
1704年 | 9月、松代藩主の真田伊豆守を造営奉行とし手斧始めが執行される。 |
1707年 | 慶運により本堂(現・本堂)が完成す。 |
1712年 | 旧瑠璃壇跡に地蔵菩薩像が建つ。参道敷石代が寄進される。 |
1714年 |
7777枚の参道の敷石工事が完成す。 |
1722年 |
銅造の地蔵菩薩坐像(通称:濡れ仏)が奉建される。 |
1730年 | 常念仏二万日の節目を記念して執行された御回向が居開帳の起源とされる。 |
1740年 | 寺社奉行の裁定によって大本願が大勧進の管理下に置かれる。 |
1742年 | 三都開帳(江戸・京都・大阪)が開催される。奥羽地方まで巡歴す。 |
1745年 | 本堂再建記念の御開帳が開催される。 |
1750年 | 香雲により山門が完成す。 |
1759年 |
経蔵落慶記念の御開帳が開催される。 |
1762年 | 常念仏三万日奉祝の御開帳が開催される。 |
1773年 | 常念仏三万五千日奉祝の御開帳が開催される。 |
1778年 |
江戸へ出開帳す。 |
1779年 | 近畿・東海道を約3年間に渡って回国開帳す。 |
1784年 | 2月、大勧進の等順が参詣者に融通念仏血脈の授与を開始す。 7月、善光寺本堂にて浅間山大噴火の追善大法要が執行される。 |
1785年 |
常念仏四万日奉祝の御開帳が開催される。 念仏堂において回向。 |
1791年 | 本堂、山門、経蔵、仁王門再建奉祝の御開帳が開催される。 |
1794年 | 北陸・中国・四国・九州地方で5年間、回国開帳す。 |
1799年 | 常念仏四万五千日奉祝の御開帳が開催される。(回国開帳) |
1800年 | 五重塔の再建が幕府の方針で不許可となる。 |
1804年 |
出開帳が開催される。 |
1811年 | 常念仏五万日奉祝の御開帳が開催される。 |
1821年 | 常念仏六万日奉祝、本堂屋根修復成就記念の御開帳が開催される。 |
1826年 | ペルシャ産のラクダの見世物が興行される。評判となる。 |
1832年 |
常念仏六万日奉祝の御開帳が開催される。 3月、吉田玄魁堂の門人・田原小野右衛門忠継の他5名、算額を奉納す。 |
1833年 | 仲秋、武内担度道の門人・山下喜総太宣満の他4名、算額を奉納す。 |
1840年 | 本堂屋根修復記念の御開帳が開催される。 |
1847年 | 弘化の大地震により北信一帯に多数の死者や家屋の被害が出る。 常念仏六万五千日奉祝の御開帳が開催される。(3月24日の地震で中断す) 仁王門、3月24日の地震の影響で焼失す。(M7.4と推測。後に「善光寺地震」と呼ばれる。) |
1853年 |
鐘楼の改修工事を実施す。 |
1864年 |
仁王門の再建が成る。 |
1865年 |
常念仏七万日奉祝、仁王門再建落慶記念の御開帳が開催される。 |
江戸時代に開催された御開帳の回数は何回❓
これまでの調べによると江戸時代に執行された御開帳の回数は136年間で16回、開催されてい‥‥申す。アヒャっ
内訳
- 常念仏の節目に開催された御開帳が10回
- 出開帳の後、如来を慰労する御開帳が4回
- 堂舎の落慶記念を奉祝した御開帳が6回
明治時代
年 | できごと |
1864年 | 仁王門が再建される。 |
1865年 | 御開帳が開催される。 |
1867年 | 廃仏毀釈・神仏分離令の影響で山千寺が戸隠山・顕光寺(末寺)の所管を離れ、善光寺大勧進の末寺となる。 |
1870年 | 明治政府により善光寺寺領が松代藩の付属とされる。 |
1871年 | 善光寺領が中野県に属し、程なくして長野県になる。元善町が成立す。 |
1872年 | 近代最初の御開帳が開催される。 |
1876年 | 大本願が浄土宗に復す。 翌年、中衆も大本願に属し浄土宗となる。 |
1877年 |
当年より御開帳期間を4月10日から50日間と定める。 |
1878年 | 明治天皇が北陸東海巡幸の際に大勧進に宿泊し本堂参詣す。 |
1882年 |
御開帳が開催される。(この年以降の御開帳は子と午の年に開帳されるようになる) |
1888年 | 御開帳が開催される。 |
1891年 |
仁王門が火災にて焼失す。 |
1894年 | 信越線の全線開通を奉祝しての御開帳が開催される。 |
1900年 | 茂菅(もすげ)に発電所が設置され市内に電灯が灯るようになった記念の御開帳が開催される。 |
1906年 | 日露戦争の戦勝奉祝、忠霊殿新造記念の御開帳が開催される。 |
1910年 | 忠霊殿が建設される。 |
1912年 | 1911年の中央線開通記念の御開帳が開催される。 |
大正時代
年 | できごと |
1918年 | 1891年に焼失した仁王門が完成す。 翌年、高村光雲・米原雲海の合作の仁王像が安置される。 御開帳が開催される。 好景気も相まって歴代でも記録的となる55万人が訪れる。 |
1924年 |
御開帳が開催される。 |
昭和時代
年 | できごと |
1936年 |
長野駅舎落成記念の御開帳が開催される。 |
1942年 |
御開帳が開催され‥‥なかった。 戦争のため無期延期となった。トホホ‥‥ |
1945年 | 進駐軍の一行が本堂地下の戒壇の錠前を開けて検分す。 濡れ仏が重要美術品指定を受ける。 |
1946年 |
5月15日、大本願と大勧進の二元運営体制が敷かれる。 |
1949年 | 戦後初めての御開帳が実施される。 以後は何らかのイベントに合わせて開帳されることが多くなる。 4月20日、雲上殿落慶 |
1951年 |
善光寺本尊伝来1400年記念の御開帳が開催される。 |
1953年 |
本堂が国宝指定を受ける。 |
1955年 |
善光寺文化と名宝展に合わせて御開帳が開催される。 |
1960年 |
本堂にて約1000年ぶりとなる瑠璃壇の法義が公開される。 |
1961年 | 産業文化博覧会開催に合わせた御開帳が開催される。 |
1965年 | 山門と経蔵が重要文化財に指定される。 |
1970年 | 三重塔形式の日本忠霊殿が完成す。(現在の忠霊殿) |
1979年 |
毎年7月12日・13日の屋台巡行(御祭礼)が当年より御開帳に合わせての開催に改められる。 |
1985年 | 御開帳が開催される。307万人の参拝客を記録。 |
平成時代
年 | できごと |
1989年 | 本堂の大修理が終了す。 |
1993年 |
11月、全国善光寺会が設立される。 |
1997年 |
以下の節目を記念しての御開帳が開催される。
以上、56日間で515万人が訪れた。 |
1998年 | 長野冬季オリンピックが善光寺の梵鐘の音を合図に開幕す。 五輪開催期間中はドイツ選手団の選手村としても利用された。 |
2002年 |
山門の改修工事が実施される。 田中康夫元知事の発案により、長野駅から善光寺までの街角を花で彩るイベント「花フェスタ」が開始される。 |
2003年 |
新幹線開通後初の御開帳が開催される。 過去最高となる参拝客628万人を記録。 |
2004年 |
「長野灯明まつり」が正式に定例イベントとして開始される。 当イベントは長野オリンピックのメモリアルイベントとして2003年に開催された「善光寺ゆめ常夜灯」が起源となる。 以来、毎年2月上旬から中旬にかけて開催される。 |
2007年 | 山門の改修工事が終了す。 将来の建築資材育成を兼ねて「善光寺の森」植林計画が実施される。 |
2008年 | 4月24日から11月30日まで三門内部の特別公開を実施。 4月18日、当初、北京オリンピックの聖火リレーの出発式会場に指定されていた善光寺はチベットでの騒動を重く受け止め、出発式会場のから辞退を表明す。 後日、聖火リレーの出発時間に合わせチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を営む。 11月、出発式会場辞退への感謝の意を表し、ダライ・ラマ14世が釈迦像を善光寺へ贈る。 |
2009年 |
山門の落慶を奉祝しての御開帳が開催される。 3月、ダライ・ラマ14世の釈迦像が忠霊殿にて一般公開される。 |
2010年 | ダライ・ラマ14世が来寺し世界平和を祈念する法要を執行す。 |
2013年 | 東日本大震災被災地の復興支援を目的に東京・両国の回向院で出開帳が執行される。 |
2014年 | 白馬村を震源とする地震により、境内の石灯籠の多くが倒壊す。 |
2015年 | 御開帳が開催され期間中の参詣者数が700万人を超える。 |
令和時代
年 | できごと |
2020年 |
善光寺中興の祖・等順大僧正の命日となる3月25日、善光寺大勧進の栢木寛照 副住職ほか僧侶17名が新型コロナウイルス沈静法要を厳修す。 |
2022年 | 2021年度に開催予定だった御開帳は新型コロナ感染拡大によって翌年2022年に開催延期となる。 また御開帳期間もコロナ感染拡大防止対策の処置が採られ、密集を避けるため期間延長される。(史上初?)期間:4月3日(日)〜6月29日(水)までで無事終了を迎えた。 |
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