長野善光寺の寺紋の形と寺紋の由来と使用理由

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長野善光寺の寺紋の形と寺紋の由来と使用理由

善光寺の家紋(寺紋)は徳川将軍家の家紋と似ている

善光寺の家紋(寺紋)をよく見ると、有名なあの家紋に似ていることが分かります。

その有名な家紋とは、どこの家紋かお分かりになりますでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

残念無念~!ハズレです。

正解は「徳川将軍家の三つ葉葵の家紋」です。

水戸肛門で有名で・・あぉぅ間違い!黄門!!・・で有名ですね。..こホンっ!

角さんと助さんが乱闘の最後で印籠を出します。その印籠のデザインこそがまさに三つ葉葵の家紋です。

ちなみに善光寺の家紋は立葵紋と呼称し、徳川将軍家の家紋は三つ葉葵紋と呼ばれています。

善光寺の家紋が使用されたのは創建当初から??

善光寺の寺伝、もしくは「善光寺縁起」によると、善光寺の寺紋は「本田善光卿の家紋である」と述べられています。

しかし善光寺の家紋が創建当初から掲げられたのかは謎であり、仮に創建当初から本田善光が家紋を掲げていたとすれば、時代関係の辻褄が合わなくなってきます。

この理由は、家紋が歴史上に登場し始めたのが平安末期と伝えられているからです。

平安末期には貴族が自らの所有物を証明するために、家紋のような模様を身の回りのものに付け始めたと云われております。

以上のことから創建当初から現在のような善光寺の家紋が掲げられていた可能性は低く、つまりは後世にて掲げられたと考えられます。

善光寺が立葵の寺紋である理由

ここで疑問となってくるのが「なぜ善光寺が立葵の寺紋なのか?」についてです。

この理由に関しては後述していますが、善光寺を創建したとされる本田善光の家紋、つまり、本田氏の家紋に由来しています。

ちなみに本田氏は、漢字では”本多氏”とも書き、これはつまり本田氏と本多氏が同族であることを意味しています。

この事実は、善光寺の前に本尊・善光寺如来が安置されていたとされる「信州飯田の善光寺(元・善光寺)」では、なんと!本田善光を”本多善光”と書き表していることに紐づくからです。

 

 

立葵の家紋の由来と起源

立葵の家紋ルーツ(起源)は京都賀茂神社で執り行われる「葵祭(あおいまつり)」に由来するものです。

葵祭は毎年、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に執り行われる例祭で京都三大祭りの1つにも数えられるほどの由緒ある祭典です。

この祭りが葵祭と呼称される理由は、葵の花を飾り立てて行列を組み、上賀茂神社と下鴨神社を結ぶ街中を練り歩くことに起因します。

また、賀茂神社の祭典で使用されることから、別名で「カモアオイ(賀茂葵)」とも呼ばれます。

現在も従来の様式を踏襲し、平安後期の装束を着用した行列が街中を練り歩きます。

京都三大祭を紹介するチョ

葵祭:(賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社))
祇園祭:(7月/八坂神社)
時代祭:(10月/平安神宮)

葵紋はもともと京都賀茂神社の社家(神官)が使用していたものであり、この社家の子孫が本多氏になります。

さらにこれはあまり知れられていませんが、なんと!徳川家の前身である松平氏も本多家と同じ京都賀茂神社・社家の一族であると云われています。

立葵の意味

「立葵」という名前は、実は「フタバアオイ」と呼称する花の名前に由来しています。

タチアオイ」という名前の花も存在しますが、この花とは関係がありまっしぇん。しぇんしぇん

徳川家の家紋は「三つ葉葵」本多家の家紋が「立葵」の理由とは?

上述では松平家(後の徳川家)と本多家は同じ京都賀茂神社の一族であると述べました。

しかし徳川家と本多家の家紋は同じ葵紋でありながら、形状が異なります。

例えば、徳川家の家紋をよく見ると「三つ葉葵」が使用されています。つまり葵の葉が3枚です。

一方、本多家の家紋は3枚の葉に茎を付けて立たせて立葵としています。

この理由は本多家が徳川家と同じ家紋では恐れ多いとのことで、あえてデザインを変えたためです。恐れ多くも先の副将軍..みぃとぉ..

ただし、ここで注意点がありますが、実際のフタバアオイは葉が3枚もありません。名前の通り2枚までです。

何故、あえて3枚にしたのか理由は定かではありません。

葵紋の使用は徳川時代(江戸時代)は禁止されていた?!

すでにご存知の方も多いと思われますが、徳川時代は「葵紋=将軍家の紋所」として一般の使用は一切、禁止されていました。

その中でも特に徳川家に功績があり、徳川一門格でもある本多家のみは使用が許可されています。

その本多家の系譜を受け継いたからか、善光寺は江戸時代のご時世でも葵紋の使用が特別に許可されています。

しかし、当初は葵紋の使用に関して将軍家と諍い(いさかい)があったようですが、結局、上述したように特別に使用許可が下りることになります。

この理由は、本多家の一族でもある本田善光が創建した寺院であり、はたまた善光寺も代々受け継がれてきた様式を、踏襲する意志を曲げなかっためだと考えられています。

 

”本田氏”と”本多氏”

本田氏のルーツは謎が多く、現在でも謎とされている部分が数多く残っています。

例えば上述したように「元・善光寺」とも呼ばれる信州飯田の善光寺では、本田善光を漢字で表記する際、”本多善光”と表記しています。

実のところ、この表記の仕方は間違いではなく、本多氏と本田氏は同族であったと考えられているからです。

時代を経る過程でいつしか、別の一族として考えられるようになっています。

しかし、ここで問題になってくるのが、本田氏と本多氏それぞれにどのようなルーツが存在したのかです。

実は本田氏に関してのルーツは明らかにされておらず、本田氏と本多氏が同族として「本多氏」としてのルーツが明らかにされています。

その本多氏のルーツとしては、藤原北家の子孫、藤原助秀(本多助秀)が、豊後日高郡本多郷(現在の大分県)を所領として移り住んだことから「本多姓」を名乗るようになっています。

以降、本多氏の子孫は東国に進出していきます。

ただし、藤原助秀は平安時代の人物であり、時代関係から「本多=本田」が同族となったのは、平安時代後期以降と考えられます。

このように考えると本田善光が存命中であった飛鳥時代においての名前は別称と伝わる「若麻績東人(わかをみのあずまこ)」か、もしくは本当に本田氏が実在したことになります。

若麻績東人が当時の本名だとするのであれば、本田姓や本多は後世で付されたと言う解釈になります。

本田善光のルーツ

本田善光という人物は謎が多く、現在に至っても詳細は明らかにされていません。

この理由は善光寺が過去、度重なる火災に見舞われ、創建当初からの古文書が焼失してしまっているからです。

しかし例えば、本多氏と本田氏が同族であると考えて、本多氏のルーツを考えた場合、本多氏は藤原氏の氏族であり、藤原氏は中臣鎌足(なかとみのかまたり)で有名な中臣氏が元祖となり、中臣氏の祖先は渡来系の百済王家であるとされています。

  • 本多氏→藤原氏
  • 藤原氏→中臣氏が祖先
  • 中臣氏→百済王家

しかしもう1つ説があり、本多氏は渡来系の秦氏(中国秦皇帝の末裔)の子孫とも考えられています。

具体的には本多氏は賀茂神社で有名な賀茂氏の氏族であり、その賀茂氏は秦氏と婚姻し以降、同族になっています。

そしてこれら百済王家や秦氏との関わりが深い、もう1つの一族が存在していたことはあまり知られていません。

その一族名前が安曇氏(あずみうじ)になり、本多氏のもう1つのルーツをもつ一族でもあります。

本多氏と安曇氏

安曇氏は海人族(かいじんぞく/日本全国の主たる海洋を支配した一族)であり、北九州に拠点を置いて繁栄を極めた一族です。

安曇氏は、操船技術や造船技術に長け、主に朝鮮や中国との貿易を盛んに行っていた一族と伝わっています。

安曇氏は貿易を行う過程で当時、最高級品と呼ばれた翡翠(ヒスイ)を入手するために、新潟県糸魚川やそのさらに奥地・長野県にも勢力を拡大させ、長野にも拠点を置いています。

ここでピぃ~ンときた方もおられると思いますが、長野県安曇(現・松本市)は、かつて安曇氏が安曇村と言う「村」を築き、その地名が現代に至るまで踏襲されてきたものだと云われています。

安曇村が創設された後、安曇氏の一族と共に、秦氏や百済王家の一族も安曇村に住み着き、翡翠などの鉱物資源を採掘していたと考えられ、本田善光はこの子孫であるとも考えられています。

終わりに・・

ここまでで本田善光のルーツと善光寺の家紋について述べました。

しかしそもそも本田善光なる人物の名前が歴史上に登場したのが中世の頃であり、はたして本当に実在したのか?などの事実についても不確かな記録が多く、一説では架空の人物とも考えられています。

なにせ本田善光は飛鳥時代の人物なので不確かなのも当然であり、過去の真相は闇の中と言わざるをえません。ウフ

ちなみに余談ですが、戦国武将でお馴染みの本多忠勝(ほんだただかつ)も、上述した本多氏の子孫にあたり、つまりは本田善光とは縁戚関係になります。

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