善光寺の絶対秘仏本尊「善光寺式阿弥陀三尊像(一光阿弥陀如来像)」は実在するのか❓創建当初は違う仏が祀られていた⁉️

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善光寺の本尊(絶対秘仏)は本当に見た人がいない❓

これまでの善光寺の歴史を物語る文書にも善光寺の秘仏本尊が絶対的に阿弥陀如来像であるのかは記されてい‥ない。ふぅ

もしくは尊像が本当にあるのかさえ、今日に到るまで胸を張ってその存在性を語れる者は誰一人としてい‥ない。クっ

なぜなら善光寺の大本願や大勧進の首長(住職)ですらお目にかけることができず、古今、誰一人として見た者がいないとされるているからに他ならぬぅぁぃ。アヒャっ

現在の通説では阿弥陀如来像と決めつけられているが、これは7年に一度、開帳される前立ち本尊が秘仏本尊の模造仏とされているところが大きい。

もし仮に尊像が存在したとしても、それが本当に前立ち本尊に見る阿弥陀如来像なのか?それとも釈迦如来像であるのか?薬師如来像であるのか?‥さえ判然としない。

また、これまでの善光寺の歴史を紐解いていくと度重なる火事に見舞われてきたことが記されるが、ひょっとすると秘仏本尊は焼損し、原形すらとどめていない可能性も考えられる。

仮にもし、見た者がいたとしても現状の有り様を加味した場合、その事実は口伝されずに、むしろ封じ込められてきたことになる。

秘仏本尊を忠実に模して造立されたと伝わる「前立ち本尊」。7年に1度だけ開帳される。

善光寺の本尊が秘仏になったのはいつ❓秘仏とされた理由とは❓

善光寺秘仏本尊は1179年(治承三年/鎌倉時代初期)の火災にて焼けてしまい、その後、前立ち本尊が作られて秘仏とされたという説がある。

もしくは全焼したという説もあるが、だとすれば中にはいったい何が収められているのか❓‥‥‥などという疑問も生じる。

全国各地に散らばる数ある善光寺分身仏の中でも甲斐善光寺の本尊は最古の作例とされるが、火事の17年後に完成していることから、火事が起こる前に善光寺本尊を忠実に模して造立された可能性も想像に難くない。

だとすれば、甲斐善光寺の本尊は1179年以前の善光寺秘仏本尊の造形を今に伝える貴重な尊像ということになる。

なお、善光寺秘仏本尊を模して造立された全国各地に散らばる分身仏(俗に「善光寺分身仏」と呼ばれる)は、鎌倉時代に造立されたものが最古とされ、平安時代以前に造立されたものは無いと云われる。

これは鎌倉時代に善光寺信仰が隆盛した事実を裏付ける要素の1つでもあり、その時流に沿う形で本尊の代わりに分身仏となる前立ち本尊が誕生したのであれば辻褄は合ぅ。

戦国時代に上杉謙信に盗まれていた❓

その他にもとんでもない説があり、1784年(天明四年)に武陽山人が著した「駿江雑説弁」には、1555年の川中島合戦の折、信州中野城主・高梨政頼が善光寺如来を戦争の被害から護るという名目で越後の上杉謙信へ奉じ、謙信は春日山城下に一宇(如来堂)を築いて奉安・尊信したとされる。

この話はこれだけでは終わらずに、さらに星霜経て1601年(江戸時代初期)になると上杉家の国替えに伴ぃ、長らく春日山に留まった善光寺如来も米沢に移されることになり、謙信の養子であり初代米沢藩主となった上杉景勝は、米沢城本丸に堂宇を築いて如来を移し奉った。

その後、1876年(明治9年)には米沢城から米沢市内の某所へ移されたと云われるが‥‥、これで終わらないのがこの話の恐ろしいところ。

さらに星霜経て今度は昭和初期になると、上杉家の菩提寺である法音寺(ほうおんじ)に寄進され、現在、法音寺にて秘仏とされているとのこと。

実際に法音寺には同様の由緒をもつ善光寺如来像が存在し、どうやら絶対秘仏ではなく年に1度、ご開帳されている模様。

ただし、以上の内容は諸説あるうちの一説であり、これらの説に関して善光寺は否定しているとのこと。オホっ

江戸時代は町人文化が華やいだ時代‥。時に誇張じみた大胆な発言も必要とされたのであろぅかのぉぅ。…ふぉっふぉっ

数度の川中島の戦いは信玄と謙信が繰り広げた善光寺如来争奪戦だった?!

後世では上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いは5回戦っても決着がつかなかった英雄美談として語り継がれているが、一説に謙信と信玄が闘争を繰り返した理由の1つに善光寺如来を奪い合ったとも云われる。

1555年の戦いの折、謙信の思惑を知った信玄は、信濃国善光寺ならびに甲斐善光寺の別当職・栗田鶴寿(くりた かくじゅ)を調略し、自軍へ引き入れて善光寺を我が物とした。

その後、信玄は早急に善光寺秘仏本尊、および堂内の諸仏を小県郡(ちいさがたぐん)禰津村(ねずむら/現在の東御市)へ移し、さらに信玄の本拠地である甲斐(現在の山梨県)の法城寺(現存しない寺)へ移したのだった。

ただし、先の1552年の村上義清との一戦により、善光寺はすでに廃になっていたことから、信玄が傲慢を振りかざした訳ではないということを付言する。

これを受け、謙信も善光寺を奪回すべく軍勢を犀川(さいがわ)沿岸へ繰り出し、両軍は犀川を挟む形で対峙することになった。

しかし、甲斐の虎と謳われた戦国の雄・武田信玄晴信は強固な布陣を敷き、互いに睨み合ったまま、とぅとぅ200日が経とうとしていた‥‥‥と、その矢先のことだった。

信玄は昨年(1554年)に締結した「甲相駿三国同盟」の誼(よしみ)を介し、海道一の弓取りと謳われた戦国の雄・今川義元に謙信との仲介を請ぃ、謙信を壇上へ引きずり上げた。

謙信も兵馬の疲弊や国のこともあり、これを退き所とし、互いの領分を均等とすべく、旭山城(信濃国水内郡長野村旭山/現在の長野県長野市平芝)の破壊、ならびに犀川を境として北側を上杉、南側を武田の領地とすることで和睦に到った。

犀川の北側を得たことで善光寺はふたたび謙信の掌握するところとなり、善光寺に残された仏具、宝物類を越後へ運んで居城・春日山城下の十念寺(じゅうねんじ/後に「浜善光寺」と呼ばれた)に移した。

なお、この時に善光寺本尊も移して上述の法音寺へ引き継がれるエピソードが展開していくのだが、戦国時代の甲斐国の風土記となる「王代記(おうだいき)」によると、1558年に甲斐善光寺が創建されると信玄は善光寺秘仏本尊、ならびに諸仏、仏具、寺僧、職人など、すべて甲斐善光寺へ移したと云われる。

だとすれば、信玄は栗田鶴寿を調略した時点で、すでに善光寺秘仏本尊を甲斐へ移していたと捉えるべきであって、だとすれば現在、法音寺に奉安される善光寺如来像は、秘仏本尊などではなく善光寺分身仏の1つということになる。

織田信長も欲した善光寺如来

他説としては武田勝頼を長篠で破って衰微した武田氏を滅ぼした織田信長は、甲斐善光寺に安置されていた善光寺秘仏本尊を岐阜城下の伊奈波(いなば)へ移したとされる説もある。

その後、江戸時代になって幕府が開かれると家康公の夢枕に善光寺如来が立ち、「善光寺へ帰りたい」と託宣し、善光寺へ戻ったというストーリーとなる。


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善光寺本尊の影を法隆寺献納四十八体仏に見る

善光寺秘仏本尊を語る上で頻繁に比定対象に挙げられる作例の中に、東京国立博物館の法隆寺献納宝物群の中の「如来および両脇侍像【重要文化財】※第143号」がある。

本像は現在までの調査の結果、飛鳥時代末、もしくは朝鮮三国時代(高句麗・百済・新羅)の末年、または中国の北斉・北周・隋から初唐あたりのおよそ7世紀中頃に造立された可能性があるとみられてい‥‥申す。アヒィっ

だとすれば善光寺秘仏本尊は仏教伝来と共に我が国にもたらされたという可能性も捨てきれないものがある。

この論証を裏付けるものとして、北畠親房(きたばたけちかふさ)が編纂した神皇正統記(じんのうしょうとうき)を挙げると、欽明天皇十三年(552年)壬申(みずのえさる)の10月に百済から三宝(仏法僧)がもたらされたのが、日本における仏法伝来の起源だとする。

しかし当時の日本には他国の神を受け入れる体制や思想がなかったことから、結果、群臣が天皇をお諌めし、三宝のうちの仏、すなわち仏像は捨てられたと伝える。

現在までの通説では、この時、仏像を捨てた張本人こそが廃仏派で有名な物部守屋の父・物部尾輿(もののべの おこし)と中臣鎌子(なかとみの かまこ)とされる。(日本書紀では像が2体が存在し、もう1体は物部守屋が難波に捨てたことになってい‥‥。ちょぃ今余裕なぃ

この仏像の正体については諸説あるが、たとえば浄土宗の僧・皇円(こうえん)が著した扶桑略記(ふそうりゃっき)には、欽明天皇十三年(552年)10月13日、百済の聖明王が金銅製 釈迦如来像1体と経論、幡蓋(どうばん/仏像を祀る荘厳具の一種)を日本へ贈ったと伝える。

皇代記(こうだいき)では欽明天皇十三年(552年)に百済国の使者が数多くの仏像・経巻などを携えて渡来し、この中に現在の善光寺秘仏本尊が紛れており、これが日本にて初めて仏法がもたらされた起源と記す。

これ以外の説では、百済の聖明王が長さ1尺5寸(1尺=30.303㎝/5寸=15.1515㎝)の阿弥陀如来像と、長さ1尺の勢至菩薩像を奉献したと記され、これが善光寺秘仏本尊だとする説もある。

後にこの像を本田善光なる者が大坂難波の堀江にて偶然に見つけ、これを引き上げて信濃国に奉安した。これが現在の善光寺の始まりであり、これよりは善光寺縁起に記されるストーリーへとつながってゆく。

本田善光が善光寺如来を見つけた様子を描いた墨絵 https://ja.wikipedia.orgより)

善光寺の創建当初の本尊は外国製(渡来仏)だった⁉️

善光寺にほど近く、信越の国境付近に位置する関山神社(元来、妙高山登山口の修験道場)では、長らく奉安される御神体は秘仏とされてきたが、いざ開扉してみると6世紀に朝鮮で造立された菩薩像だったことが明らかにされてい‥‥‥ます。ピクっ

それゆえ、善光寺秘仏本尊も渡来仏であった可能性が高いとみる見解もある。

善光寺秘仏本尊は高句麗から渡来した北魏様式の高句麗仏だとする説があるが、だとすれば高句麗の鉱物採掘技術によって採取された鉱物を以って、鍍金で造像されたことが想像できる。

また、当時の高句麗の背後に見え隠れするのは中国であり、実際に中国山東省青州市にある龍興寺の穴蔵からは以下のような一光三尊式の仏像が出土してい‥‥‥申す。アヒャっ(2回目)

  • 石灰岩製・極彩色の一光三尊形式の「弥勒仏」(「北魏の永安二年(529年)造立」の刻銘がある。)
  • 東魏6世紀の造立とされる像
  • 「東魏の天平三年(536年)」の刻銘がある像

ちなみに東京国立博物館の東洋館には「544年(武定2年)」の刻銘をもつ、東魏様式を伝える中国河南省・法雲寺旧蔵の石灰岩製の一光三尊立像も所蔵される。

以上、これまで経緯を考察していくと、仏教がインドから中国を経て朝鮮半島へ伝わり、朝鮮半島から日本へもたらされた「三国伝来」という説が浮き彫りになってくるが、‥‥‥はてさて。(日本への仏教伝来説は諸説ある)

善光寺秘仏本尊は百済人が信濃で作った❓

善光寺の本尊となる仏像を最初に鋳造したり、礼拝していたのは当初、渡来系の人々だったとされる説もある。

この説によると、善光寺秘仏本尊は百済の聖明王から贈られたものではなく、敏逹天皇(びだつてんのう)の御代に百済より渡来した仏工たちが大坂難波を経て信濃へ至り、当地にて百済の仏工たちが制作したとされる。(善光寺縁起では本田善光が難波で尊像を引き上げて信濃に到り、当地にて奉安したとする)

この傍証を裏付けるものとして、実は長野県内には朝鮮三国時代の高句麗の墳墓様式を踏襲したとされる「積石塚古墳」が850基以上も存在し、これは全国最多となることが明らかにされてい‥‥‥ます。フンにゃ(新パターン)

噂の「積石塚古墳」

この墳墓の中には、合掌形石室(合掌するように積石を配して作られた石室)を有した墳墓が25基も見つかっており、これは朝鮮の百済で見られる墳墓様式とされる。 フンがフンが

トイレでクソった後ケツ拭き紙切れで、指で拭く瞬間の勇気ほど‥噂の「合掌形石室」 ..長っ

中でも注目が寄せられているのが、長野市松代町・大室地区で見つかった「大室古墳群」であり、およそ5世紀から8世紀頃に築造されたとみられてい‥‥‥ます。フェイント

これは言い換えると高句麗や百済の人々が渡来した後、当地にて定住していた事実が浮上する。

大室古墳群(画像は長野市より)

なお、平安時代初期成立の「続日本記(しょくにほんぎ)」や「日本後記(にほんこうき)」によると、どうやら百済・高句麗から渡来してきた人々の子孫たちは、百済の官位や職制に由来して氏名を名付けられる慣習を忌み、和風の氏姓を賜われるよぅ、朝廷に打診していたことが記される。

ただ、以上のような説を正説と捉えた場合、善光寺縁起の存在性が改めて問われることになる。


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元禄年間に秘仏本尊を見た人がいる‥‥❓

明治初頭に編纂された善光寺由来記によると、善光寺秘仏本尊は元禄年間(江戸時代/1688年〜1704年)に別の場所に移された、もしくは厨子の中に収められているのは贋作(模造仏)であり、秘仏本尊は盗まれたなどという風説が流布したとある。

人とは絶対に見れないモノがあると見て見たいといぅ衝動に駆られる生き物であり、それを酒の肴などとして日常の中でも振る舞いたくなるもの。

‥‥ということで、この噂は止むどころか江戸中に知れ渡るところとなり、この話を耳にした甲府藩主の柳沢吉保は東叡山(上野寛永寺)に請ぃ、法親王(ほっしんのう)はその事実関係を探るべく、役僧を当地に派遣させる運びとなった。(法親王とは元・皇族であり寛永寺の住職)

こぅして東叡山からは元・天台座主であり現龍院(寛永寺支院)住職の「敬諶(けいたん)」が派遣され、善光寺からも大勧進、大本願ならびに寺中からも役僧が選抜されて派遣されるという大事に到り、1692年(元禄五年)12月14日、午前4時より午前8時まで善光寺秘仏本尊がご開帳されたのだった。

敬諶は汗ばんだ手で扉の錠前をつかむと、おそるおそる息を飲みながら扉を開ける‥‥すると、『ウぉっ!!』‥‥などと奇声を発しながら身体をのけぞらせる‥‥

そぅ!扉を開けるなり扉奥から五光があたり一面に射し、面喰らった一同は腕を盾にして思わず目を伏せた。

そうかと思えば何とも芳しぃ、この世のものとは思えないほどの異香が漂いはじめた。

‥‥と、以来、秘仏本尊の存在は誇張表現される風習を生み出したのは言うまでもなく、この検分にて存在性や真贋は明らかにされたものの善光寺秘仏本尊には部分的に損傷があったという説も残るる。

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