【長野善光寺の謎と七不思議!】「知られざる本堂・守屋柱の謎」とは?

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【長野善光寺の謎と七不思議!】「知られざる本堂・守屋柱の謎」とは?

善光寺・本堂の最奥、内々陣には「守屋柱」と呼ばれる柱が1本立っています。

実はこの柱が古来、善光寺の謎であり七不思議と云われています。

以下では、この守屋柱の謎にせまってみます。

※↑の画像は守屋柱ではありません

「守屋柱」とは?

守屋柱とは、「もりやばしら」と読み、これは善光寺本堂の最奥の内々陣に据えられている角柱(四角柱)のことです。

善光寺本堂の柱は全部で108本ありますが、向拝(こうはい)部分の柱を除いて、この1本の柱だけ何故か四角に加工されています。

おそらく善光寺に参拝予定の方、もしくはすでに参拝された方であれば、善光寺に関するパンフレットを見られたハズなので「守屋柱」の名前くらいは知っているのではないでしょうか。

この柱だけ角柱であり、後述するような理由があることから特別に「守屋柱」と呼ばれています。

守屋柱の姿形ってどんなの?

守屋柱は金箔が押され金色に光輝く柱なんダヨ。ボクのクソみたいなド頭より光ってるんだヨ。負けちゃったなぁ。材質は杉の木ダヨ。ウフ

形状は四角なんだけど、この四角の角が丸くなるような加工されてるンダ!だから実際は八角形に見えるよっ!..ちゃんイカ

守屋柱と呼ばれる3つの理由

守屋柱と呼ばれる理由としては以下の3通りあります。

守屋柱と呼ばれる理由【その1】

なんと!古墳時代の豪族「物部守屋の首」がこの柱の下に埋め込まれていると云われ、これが守屋柱の呼称の理由になります。ドっひゃ~

また、この柱が角柱である理由は、もともと四天王寺(大阪)にあったとされる角柱をそのまま善光寺へ持ってきたためだとも云われているからです。

現在の四天王寺には、このような守屋柱なる柱はありませんが、善光寺へ移されたのが真実であるとするのであれば、かつては境内に存在したことになります。

守屋柱と呼ばれる理由【その2】

上述のように物部守屋の首が下に埋められていることから、四角の柱を据えることで「守屋の怨念を封じている」とも考えられています。

後述していますが、一説では長野善光寺そのものが物部守屋の怨念を封じるために創建されたとも考えられています。

守屋柱と呼ばれる理由【その3】

「守屋柱」を「守屋」と「柱」に分けて考えると上述とは少し違った意味合いになります。

「守屋」は「屋=本堂の屋根」を「守る=守」柱であると解釈することもでき、これは本堂最奥で「屋根を支える大黒柱」と捉えることもできると言うことです。

守屋柱が角柱である理由

守屋柱が角柱である理由としては、八角形や円柱は神仏を崇拝するための神聖な空間に用いられることから、敢えて角柱にされたと考えられています。

この事実から考えても、本堂内で1本だけ角柱であるのには、やはり何か深い理由があると言わざるをえません。

えぇっ?!長野善光寺は守屋の怨霊を封じるために創建された?!

守屋柱と呼ばれる理由【その2】】でも説明した通り、宮元健次 著の「善光寺の謎」によると、長野善光寺は、物部守屋を封じるため、すなわち守屋の魂の鎮魂のために創建されたとの記載があります。

この理由は上述したように守屋の怨念を封じるために多氏の一族や本田善光の一族、もしくは当時、多氏と共に勢力を誇った渡来系の氏族「長野氏」などが柱を据えたと考えることができます。

さらに善光寺本堂の地下には「戒壇めぐり」なるものがありますが、一説では「戒壇めぐりをすることで守屋の怨念を封じている」とも云われています。

この理由は次の通りです。

・戒壇めぐりはちょうど守屋柱の真下に位置し、念仏を唱えながら通った。
・戒壇めぐりは守屋柱を一周するように周るので、この動きが結界をはりめぐらせる効果がある
・「錠」を設けることで怨念を封じている。

 

善光寺の戒壇めぐりの詳細に関しては以下の別ページにてご紹介しております。

長野県・善光寺の地下の謎「お戒壇めぐり=胎内めぐり」すれば「あの世」を見れる?!

えぇっ?!四天王寺(大阪)にも守屋柱が立てられていた?!

上記、”守屋柱と呼ばれる理由【その1】”でもお伝えしましたが、実は大阪・天王寺区には聖徳太子が創建したとされる四天王寺(してんのうじ)と呼ばれる寺院があります。

この四天王寺にも守屋柱が立てられたと云われ、その理由は以下のような物部守屋という大豪族が関与していると伝わっています。

 

585年(敏達天皇14年)頃、都では疫病が蔓延し、その影響から物部守屋の父親であり大臣の「物部遠許志(もののべおこし)」が病気になっています。

守屋は父の病気の原因は父が崇拝した蕃神(ばんしん/異国の神)がもたらしていると考え、すべての仏像を破壊するように命じます。

この廃仏論を唱えた後、善光寺如来にも目をつけ、如来像を畿内へ移動させて跡形もなく溶かすように鋳物師(いもじ/鋳造を行う職人)に命じています。

しかし、善光寺如来は溶けるどころか、むしろ熱を跳ねのけて、さらに五光を放って光り出します。

頭にきた守屋は溶かすことをあきらめて、現在の難波にある堀江の池に投げ捨てるように命じています。

後に聖徳太子が池から善光寺如来を引き上げようとしますが、池の中から「今はこのままでよい」との声が聞こえ如来は再び池の中へ。..ブクブクブクブク

さらにその後、本田善光なる人物が池の前を通りがかった際、なんと!如来が池から急に飛び上がりトゥっ!、善光の背中に飛び乗って現在の善光寺へ連れて行くように告げます。見参っ!トウっ!

如来を故郷へ連れ帰った本田善光は、現在の長野善光寺を創建し祀ることになります。(伝・善光寺縁起)


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話を戻しますが、守屋は廃仏論を主導するために聖徳太子の父親である用明天皇を謀殺し、崇仏派の蘇我馬子をないがしろにします。

そこで父親を殺された聖徳太子と、崇仏派を主導していた蘇我馬子は手を組むことを決意し守屋討伐を画策します。

その後、現在の大阪府東大阪市衣摺あたりに存在した守屋の屋敷に攻め入り、守屋を矢で射殺して葬り去ることに成功します。

ただ、この当時では祟りや怨念が信じられていましたので、守屋の怨念を封じるための呪い(まじない)を用いた施策をしています。

その施策として、守屋の首を胴体から切り離して四天王寺境内の地中に埋め、その上から鬼門(艮/うしとら)の方角に角柱(四角柱)を立てています。

四天王寺の角柱(四角柱)が善光寺に移された理由

上述の”守屋柱と呼ばれる理由【その1】”で四天王寺から長野善光寺へ角柱が移動されたとお伝えしましたが、実は角柱が移動された理由は定かではありません。

もしくは四天王寺に本当に存在したのかさえも不明とされています。

ただし、一説では四天王寺と善光寺の双方に守屋の怨念を封じた柱、つまり守屋柱が立てられたとも云われています。

これが事実とするのであれば、守屋柱なる角柱が四天王寺と善光寺とで2本存在したことになります。

信濃(長野県)と物部守屋の関係

ここで疑問になってくるのが物部守屋と信濃(現・長野県)のつながりです。

この疑問を紐解くためにはまず、物部守屋という人物について知る必要がありますが、一言で言うと物部守屋は大豪族で日本全国に勢力を誇り、信濃にも土地を持っていたと云われています。

守屋の本拠地は大阪八尾を中心とした畿内(京都・大阪周辺)になりますが、守屋が信濃に目をつけた理由は「馬」です。

この当時、馬は移動手段の要であり、また精強な軍隊を編成するためには必要不可欠なものでした。

とにかく馬を数多く所有することが権勢を示すことにもつながったのです。

守屋を含めた物部氏は馬を入手するために当時、信濃を支配していた科野国造(しなののくにみやつこ/信濃国を支配した豪族)の多氏(おおし)や渡来系の氏族・長野氏などに多額の資金提供を行い、その見返りとして馬を入手していました。

また、かつては物部氏の屋敷の周りに多氏や長野氏の邸宅も建てられ、朝廷へ出仕していたと伝わっています。

信濃(長野県)と畿内の繋がり

「河内長野の地名」が付けられた本当の理由

では、他に長野と畿内との繋がりを示す証拠となるようなものはないのでしょうか?

実は長野と畿内を繋ぐ証拠が現代にも残されてます。

例えば現在の河内には「河内長野(かわちながの)」という土地があります。

河内長野の名前の由来はかつて「長野村(もしくは長野郷)」という村が存在し、後に長野村の地名をもとに「河内長野」の地名が生まれています。

この長野村はかつて物部氏麾下(きか)の長野氏の邸宅や長野氏が創建した神社(長野神社/現在の辛国神社)などが存在したことから、長野村と呼ばれるようになっています。

後に長野氏は物部氏の勢力拡大に伴い、畿内から東国に移り、多氏と共に信濃の管理を任されています。

長野善光寺の元祖となる善光寺が河内長野にあった!!

また、この河内長野には「善光寺」と名の付く寺院も幾つか存在し、その数ある善光寺の中には、ちょっと興味深い面白い寺院があります。

その寺院というのが、藤井寺市に現存する「小山善光寺」という善光寺系列の寺院であり、面白いことになんと!小山善光寺は寺院で別名で「元善光寺」とも呼ばれています。

小山善光寺が「元善光寺」と呼ばれる理由とは、なんとぉぅ!絶対秘仏の長野善光寺の御本尊「一光三尊阿弥陀如来像」が祀られていたから!・・と言えば驚かれますでしょうか?

すでにご存知の通り、善光寺如来は難波の堀江の池で本田善光と巡り合った後、本田善光の背中に飛び乗り、長野善光寺で祀られることになります。

しかし、その道中のことはあまり語られていません。

小山善光寺の寺伝によると、長野善光寺までの道中に本田善光がこの小山善光寺に立ち寄り、一夜の宿を求めたと伝わっています。

その際、一時的に御本尊を安置したことから善光寺の元祖ということで「元善光寺」と呼ばれるようになっています。

現に、この伝記を誇示するかのように寺の門前には「日本最初 善光寺如来」と刻まれた石碑が立てられています。

↑小山善光寺

小山善光寺の場所

住所:大阪府藤井寺市小山1丁目16-39
電話番号:072-954-2951

 

この他、かつて物部守屋の邸宅が存在した東大阪の八尾にも元善光寺が存在し、同様に本田善光が長野までの道中に一夜の宿を求めたと云われています。

よって現在の長野県はもともとは畿内が発祥であったと考えることができ、信濃(長野)と畿内の関係は深いものであったと捉えることができます。ほほほぅ

↑八尾・善光寺

八尾・善光寺の場所

住所:大阪府八尾市垣内4丁目41
電話番号:072-941-0550

守屋柱の場所

守屋柱は本堂の瑠璃壇(るりだん)と御三卿の間(ごさんきょう)の中間に立てられていますが、残念ながら一般参拝者は見ることができません。

終わりに・・

善光寺の創建は古く、また本尊である善光寺如来についても多くの謎が残されています。

一説では、もともと本尊・善光寺如来(一光三尊阿弥陀如来像)は、四天王寺(大阪)に安置されていたものであり、後に現在の善光寺に遷されて祀られたとも云われます。オホ

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