現在までの通説としては頼朝卿が53歳の時、落馬した時の打ち所が悪かったのが、その落馬が原因で死没したと知られているが、果たして本当にそうなのか?
以下ではその原因に迫ってい‥‥‥申す。イっ..(息止)..タっ!(落馬だけに)
画像引用先:http://www.kai-zenkoji.or.jp
頼朝卿の死因
脳梗塞
吾妻鏡によると、頼朝卿は死没する2週間前に相模川で催された橋供養の儀式からの帰路の途中、落馬して打ち所が悪かったのか、痛みが和らぐことなく体調を崩し病床に陥ったと記す。
現在医学ではこの時、一過性脳虚血発作を引き起こしたのではないかという見解もある。(NHKラーニング参照)
一過性脳虚血発作は健康体の人間だと1時間以内で症状が無くなることが通例だとされるが、万が一、発作を起こしてしまった場合、90日以内に脳梗塞を引き起こすリスクが高くなると云われる。
「武家俗説弁」によると、「たちまち卒中風さし起こり 病痾(しゅくあ)を追て重く」などと記されており、今日に到るまでの見解では脳卒中の中でも血塊が血管に詰まることによって生じる脳梗塞だとする説もある。
具体的には一時的に脳の血流が低下することによって、身体の痺れ、麻痺、めまいなどを引き起こし、それらが総じて言語障害や運動機能障害を引き起こしたのではないかと見られてい‥‥申す。アヒョっ
歯周病が原因の脳卒中
例えば、吾妻鏡の建久五年8月22日条によると「御歯労」などと記されているなど、頼朝卿は死没する約4年前より、このような歯の痛みを度々、訴え、時に周囲を騒がせたこともあったと云われる。
その折、京都より歯の名医を呼び寄せて治療にあたったなどの記述も見られことから、現代医学で言うところの歯周病を患っていたとする説がある。
なお、現代医学ではその歯周病の細菌が動脈硬化や脳梗塞、糖尿病の原因となることも明らかにされており、頼朝卿が存命中だった当代では、まさか歯痛で落命することはないとタカをくくっていたと見られる。
飲水病
鎌倉時代の公卿・近衛家実(1179年〜1242年)が著した「猪熊関白記」によると、前右大将軍頼朝卿、飲水ノ重病に依リ、去ル十一日‥‥」などの記載があり、その経緯を記した上で、一月十三日に死没したことも述べている。
飲水の重病=飲水病とは昔で言うところの糖尿病のことであり、喉が常に渇くために水を多飲することから、「口渇病」「消渇(しょうかち)」とも呼ばれた難病。
その飲水病を患っていた最中、馬の背から落っこちてしまい、それが原因で糖尿病神経障害を併発して死に到ったのではないかという見解もある。
しかしながら、飲水病を患うと長患いとなるため、それなりの記述が残るハズだが、現在までに伝わる鎌倉時代の史料には、そのことを匂わせるような記述がない。
暗殺説
真俗雑録の記述
有名所では水戸光圀が著した「真俗雑録」に、頼朝卿が側近の安達盛長に誤殺された話が記される。
頼朝最後物語の記述
鎌倉時代から室町時代に成立した源平軍物語・巻二の「頼朝最後物語」の記述によると、頼家付きの内侍の女官が頼朝卿の最後をすべて知っていたとし、次のように語ったとされる。
1199年正月5日、頼朝卿が御所の南殿へ遊覧した折、畠山六郎(重保/重忠の次男(長子))が二刀突きにて刺殺し、虫気(病死)を装ってそのまま帰らぬ人とした。
後日、その事実を知った頼家が父・頼朝の仇を取るために畠山六郎を殺害する計画を練るが、それを知った畠山六郎は由比ヶ浜へ入水、そのまま竜宮城へ行って乙姫と契りを交わし400年経て未だ帰らず‥‥などと記す。まさに夢物語。
なお、鎌倉幕府側の公式歴史書となる吾妻鏡では、畠山六郎(重保)は由比ヶ浜にて三浦義村によって討ち取られたとしていることから、これは「畠山重忠の乱」を部分的に創作材料としていることが分かる。
なんにせよ頼朝卿の死因については謎が多く、何とも信じがたい嘘のような話が幾つも伝わる。
頓死
鎌倉時代の公卿・藤原定家が1180年〜1235年までの56年間まとめた明月記(日記)によると、頓死(とんし/急死)と記されている。
もし、上記の飲水病を説を有力視すれば長患いとなるため、このような記録が残ることはない。
溺死
鎌倉末期に編纂された「北条九代記(1183年~1332年の間に起こった鎌倉幕府の重要事件などを書き記した古文書)」によると、1198年12月27日、北条時政の娘(政子の妹)の旦那である稲毛三郎重成(ちん‥ではなく、”いなげ しげなり”!)が、1195年7月に亡くなった妻の冥福を祈るために相模川に橋を架橋したと記す。
政子を妻とする頼朝卿からすると義理の妹にあたることから、頼朝卿も橋供養の儀式へ臨席した。
橋供養が終わって帰路へ着こうとした時、馬が急に興奮して川へ入り込み、頼朝卿共々、溺死に到ったと云ぅ。
伝承によると近世まで相模川の河口付近は「馬入川(ばにゅうがわ)」と呼ばれおり、「馬入」の名前の由来はモチのロン!頼朝卿の馬が川に入って馬共々、溺死したことにある。
旧相模川橋脚
1923年9月の関東大震災、翌年1924年1月の大地震と連続の大地震によって、小出川岸付近の水田から忽然と7本のヒノキの柱が飛び出てきた。
旧相模川橋脚(画像引用先:https://upload.wikimedia.org/)
程なくして発掘調査が実施されるとさらに地中から3本見つかり、当時の歴史学者である沼田頼輔博士は、これこそまさに吾妻鏡にも記される橋供養の際に架橋された大橋の橋脚と結論づけた。 ふぅ
実際にその後に実施された年輪年代測定でも西暦1126年から1260年(鎌倉時代)のヒノキ材であることが明らかにされてい申す。ガァ
話は逸れるが柱が発見された水田は1926年(大正15年)10月20日に史跡、ついで2013年(平成25年)3月27日には国の天然記念物指定を受けるに到る。
そもそもなぜ落馬したのか?
吾妻鏡による記述
鎌倉時代の鎌倉幕府側の公式記録とされる吾妻鏡によると、前述、1198年12月の橋供養から帰る途中、頼朝卿は落馬してほどなく死没したと記す。
怨霊(亡霊)説
帰路途中の千の川に架橋される鳥井戸橋もしくは、八的ガ原(現在の辻堂のあたり)まで来た時、馬が急に興奮しはじめた‥‥‥かと思いきや、なんとぉぅ!
自らの頭上に叔父の源行家、弟の範頼や義経の亡霊が現出し、頼朝の目をジぃ〜っと凝視していたと云ぅ。 なにメンチきっとんねん
頼朝卿は将軍らしく毅然と立ち振る舞い、興奮気味の馬をなだめ、背中に冷や汗をかきつつも気を落ち着かせて先を急いだと云ぅ。
その後、鎌倉西の要衝である稲村ガ崎が見えてくる頃、海上に目をやると波間に10歳くらいの童が現出し、ジぃぃ〜っと頼朝卿を見つめてきた。
不思議に思いながらも馬を進めると、その童がかつて自らが操作した源氏軍によって壇ノ浦の海底に沈んだ安徳帝の亡霊であることが分かると、頼朝卿は平静を保っていられず、ついに気を失い、そのまま落馬したと云われる。
その日、鎌倉では夜通し加持祈祷が行われたが頼朝卿の容態は一向に快復に向かうことなく、1199年正月11日を以って出家すると、同月13日に息を引き取ったと記される。(ここでの出家とは浄土信仰に起因した臨終出家のこと。この時代、臨終の際に髪を下ろして僧となり極楽往生を祈願した。)
南北朝時代に成立した保暦間記(ほうりゃくかんき)には「是ヲ老死ト云ベカラズ、偏(ひとえ)ニ平家ノ怨霊也、多クノ人ヲ失給(うしないたま)ヒシ故(ゆえ)ゾ」や、「怨霊因果歴然ノ責メ也‥‥」などと記されるように怨霊の仕業による死因説を強調しているが、同史料では落馬が死因に到ったとは記されていない。
話は逸れて、仮にもし、頓死が死因とした場合、まさに川で溺死したとすれば辻褄は合わないこともなぅぃ。
亡霊説を裏付ける証拠
弁慶塚
実は頼朝卿が亡霊の仕業によって落馬したと云われる場所には現在、義経とその一族の鎮魂のための「弁慶塚」が築かれ、今日に到っても土着の人々によって大切に供養されてい‥‥‥ます。フェイント
この弁慶塚に立てられた案内板の解説に目をやると、次のように記される。
🐮弁慶塚の由来🐮
武蔵国 稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十二月二十八日その落成供養を行った。
源頼朝は多数の家臣を引き連れてこの式に参列。盛大な落成式が催された。
頼朝はその帰路、鶴嶺八幡宮付近にさしかかった時、義経・行家ら一族の亡霊が現れ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月に死去した。後年里人たち相計り(相談し)義経一族の御霊を慰めるため、ここに弁慶塚を築いたと伝えている。
昭和五十七年十一月一日 茅ヶ崎ロータリークラブ
茅ヶ崎郷土会
弁慶塚の案内板によると、頼朝卿は鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう/神奈川県茅ケ崎市浜之郷462)付近に差し掛かったあたり(まさに鶴嶺八幡宮の入口となる鳥居の手前に架かる鳥井戸橋)で義経・行家ら一族の亡霊が現出し、馬が棒立ちになって落馬の末、重傷を負ったと記されてい‥‥‥申す。グぅぇぁ〜!..ダハっ(落馬した様子を文字で表現)
御霊神社
🐮御霊神社の由緒🐮
- 御祭神 鎌倉権五郎平景政
- 御祭神 九郎判官 源義経
上記、弁慶塚や鳥井戸橋のすぐ近くにも義経の鎮魂のために創祀されたと伝わる御霊神社が佇む。
当社の由緒(歴史)が記された案内板には次のように記される。
御霊信仰とは厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。
御霊神社の創建年代は不詳ではあるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後、幾多の変遷を経て現・御霊神社になったものである。
言い伝えによれば、治承年間(1177年〜1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守 平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の御霊を祀った。
建久九年(1192年)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝一行が相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされてい‥‥る。 耐(我慢我慢)
里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えている。
後年長らく信仰の場となっていた当社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山 西運寺より独立し、現在に至っている。
現・社屋は昭和四年に再建したものである。
‥‥‥以上、弁慶塚と同様、源義経の御霊を毘沙門堂に合祀して、今もなお、鎮魂のために供養し続けているとする。
頼朝卿は数え切れないほど落馬していた?!
一説に頼朝卿は1197年の善光寺参拝の道中、落馬を繰り返し、それが原因となって1年半後に死去したと云われる説もある。
しかしながら、吾妻鏡には頼朝卿の落馬のみならず、そもそも善光寺へ参拝した事実すら書き記していない。
実は善光寺周辺には以下のような頼朝卿が落馬したと見られるような伝承をもつ伝承地がいくつか存在する。
駒返し橋(こまがえしばし)
頼朝卿が善光寺に参拝した折、参道途中の石橋に馬の蹄が穴にはさまってしまい、馬は足骨を折ってしまって頼朝卿は落馬したと云われる。
そこで駒(平易に馬のこと)を返したことから、「駒返し橋」と呼ばれるようになった。
実際に約15㎝の穴ボコが空いており、馬蹄(ばてい)のような凹みが見られる。
返り橋
頼朝卿が善光寺の秘仏本尊(善光寺如来)を移して仮堂にしたと伝わる「蓮池山 往生院」の境内には芳香を漂わす蓮花が一面に繁茂する池があり、一説に、その蓮花を思い出した頼朝卿は善光寺参道を進んだ先にある「鐘鋳川(かないかわ)」の橋上で二度見したと伝わる。
この橋は「返り橋」、もしくは「帰り橋」と呼ばれ、妻科(つましな)の独寝橋(ひとりねばし/善光寺七名所)、古牧の馬詰橋(うまつめはし)と合わせて、善光寺の「三忌み橋」と呼ばれる伝承もある。
「忌」という文字は頼朝卿の落馬と紐づけられないこともなく、頼朝卿が橋上で落馬したことが由来になったとも考えられる。
吾妻鏡の空白の3年
現在まで鎌倉時代の歴史書として有力視されている吾妻鏡(あずまかがみ)には、なぜかゼカぜかコノヤローなほどに頼朝卿の死没日(1199年1月13日/満51歳(享年53歳))から遡って3年間、頼朝卿の死因に関しての記録がない。(と、言うよりも吾妻鏡自体の記録がない。)
年号で示すと「1196年(建久六年/十五巻)〜1198年(建久十年/十六巻)までの間の約3年間(建久7,8,9年が欠落)
現在、この空白の3年間に頼朝卿の死因につながる何らかの出来事があり、その中に複数回にも及ぶ落馬について記されていたのではないかとする見方もある。
歴史学者の間では「吾妻鏡おける空白の3年間」として注目が寄せられ、様々な学術論が交わされてい‥‥‥申す。ギャ
なぜ落馬が騒がれる❓それは元服後の武者が落馬すること事態が大恥だから
頼朝卿は全国の武者を束ねる大親分的な位置付けとなる征夷大将軍or鎌倉殿だったので、合戦以外で安易に落馬することなど許されなかった背景がある。
ましてやその落馬が原因で死去するなどは恥に恥を塗り重ねるようなもの。
そこで次のような説も史上に登場する。
頼朝卿は数え切れないほど落馬していたけど徳川家康がその記録を歴史から抹消した?!
江戸中期の学者・新井白石(あらいはくせき/1657年〜1725年)が著した「紳書」によると、「家康公は頼朝公を敬愛し、名将の功績に疵(きず/不名誉なこと)を残すような記述があってはならない。」とし、頼朝卿の落馬について記載された数枚の頁をもぎり捨てたと云われる。
その後、江戸期に「東鑑」をまとめ上げた林羅山は治承四年(1180年)から文永三年(1266年)までの合計87年間分のうち、寿永二年、建久七年・八年・九年にページ抜けの可能性を指摘し、その中で頼朝卿の死没過程や落馬などの死因につながる記載があったのではないかと言及してい‥‥‥申す。…….。…..。(無言バージョン)
これは吾妻鏡に頼朝卿の善光寺参拝記録が残されていない傍証ともなり得る。
ただ、冷静に考えると吾妻鏡の写本というものが江戸期以前に存在する以上、如何に徳川将軍と言えど、そのすべてを歴史から抹消するのは不可能に近ぃ。
だとすると所詮、創作の域を出ない戯れ言であり、江戸っ子お得意の”語り(騙り)”の一端とも言わざるを得なくなる。カっ
頼朝卿は多くの人から恨まれていた
頼朝卿は数多の平家一門を葬っただけでなく、自らの一族である弟の義経、範頼、木曽義仲などの身内はじめ、多くの者を殺してきたことから、数多の世人から恨みの念を買っていたのも事実。
たとえば京師と、その以西の地域では平家一門に同情する声が多く、特に弟の義経に対しての同情の声は全国規模で比類なきものがあったと云われる。
関連記事一覧
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。