善光寺は古くから女性が出家できる寺だった
善光寺は中世以降になると女性を得度させて受容する体制が敷かれていたと云われる。
以下で挙げるのはその一例。
遊女の出家を容認
1400年(応永七年)、大塔合戦(おおとうがっせん)にて坂西長国の愛妾だった通称・善光寺桜小路(現在の長野市桜枝町が遺称)の遊女・玉菊花寿は、長国の遺骸を埋葬して弔った後、彼の冥福を祈るべく善光寺へ詣でてそのまま如来に帰依して以後は女僧になったと云われる。
妻を妻戸衆として採用する
同じく大塔合戦で死した常盤入道の妻は、夫と息子1人を失い、その菩提を弔うべく善光寺に詣でて如来に帰依した。
その後、善光寺にて女僧となり、「妻戸時衆(念仏を唱えながら戦の屍を埋葬して弔ったり、雑務をこなす寺僧のこと)」として奉仕したと云われる。
曽我物語で有名な「虎御前」
曽我物語で知られる蘇我十郎祐成の愛妾であった通称「虎御前(とらごぜん)」または「虎女(とらじょ)」、「お虎さん」とも呼ばれる。
歌川国貞作「雨の中の虎御前」 画像引用先:https://ja.wikipedia.org/
曽我物語とは、曾我祐成と曾我時致の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を富士の裾野(静岡県北東部の裾野市)にて討ち果たした仇討ち劇のこと。
吾妻鏡によると、1193年(建久4年)、源頼朝卿は富士の裾野にて御家人衆や勢子そして、遊女などを交えた大規模な巻狩り(遊興や神事祭礼や軍事訓練のために行われた狩の一種)を実施し、その最終日となる5月28日の深夜、遊女らと共に宿舎にいた工藤祐経の寝込みを襲い、斬殺した。
6月1日、曾我祐成を詮議すべく虎御前は召喚されたが無罪放免と相成り、祐成は詮議の場で新田忠常に斬殺され、五郎も捕縛された後、頼朝卿の命で処刑となった。
祐成を死を知らされた虎御前は6月18日、失意のうちに箱根の権現社の別当・「行実(じょうじつ/「累世記」では頼朝卿の従兄弟とされる)」のもとを訪れ、祐成より最後に与えられし葦毛の馬を唱導の施物(出家するための奉納品)として捧げ、剃髪の上、出家する。
出家後、熊野はじめ諸国を遊行しながら曽我兄弟の供養を行い、兄弟の一周忌法要を曽我の里で済ませた後、長野善光寺に参詣し、首にかけた2人の遺骨を奉納した。時に虎19歳のまさにピチピチ街道真っ盛りの道中なり。…..”ピチピチ街道”てなんや 盛るな
女性を剃髪(ツルっパゲ)させる建物(剃髪堂?)まであった?
安土桃山時代(1597年頃) に制作されたと伝わる「善光寺参詣曼荼羅(現・大阪府藤井寺市・小山善光寺 所蔵)」では、当時の長野 善光寺の伽藍の様子が描かれている。
実はこの曼荼羅図の中に髪の長い女性と思わしき人物を剃髪(ていはつ)している人物と建物が描かれてい‥‥‥申す。ティヤハゥェっ(”剃髪”を表現)
画像は長野市公式より
分かりづらいが、南大門をくぐって左下中央の縦長の大きな建物になる。
⬆️分かりづらいが赤色の着衣の女性の髪を尼層が切り込んでいる様子が見える
見たところ、境内諸堂の中でもわりと大きな建造物として描かれてい‥‥。..連発は寒さを生む
長野駅前の如是姫像にみる善光寺如来の霊験譚
JR長野駅西口(善光寺側)のバスロータリー前の広場には如是姫(にょぜひめ)と呼ばれる人物の銅像が建てられてい‥‥‥申す。アハっ♡
詳細な場所(地図)
如是姫とは?
如是姫はインドの大富豪・月蓋(がっかい)という人物の愛娘であり、その月蓋は金ですべて解決できるという思想の持ち主で心が貧しい人だった。
こぅいう女神像を見ていて思ぅ。なんで腹の出っ張った女神像というものが無いんやろ。‥ん?乳首カン没してへんか? ムフ💋
釈尊は月蓋に道徳を伝えようと努力したが、月蓋は聞く耳をもたなかった。
やがて最愛の如是姫が重い病に罹ると、月蓋はインド一の名医を呼び寄せるが、いっこうに治る気配がない。それどころか名医は去り際に一言こぅ告げたのだった。
「私の腕でもこの病は治ることはないでしょう。ただ、釈迦なら治癒してくださるでしょう。」
愛娘の危篤に瀕し、月蓋はついに釈尊への帰依を表し、自らの心の貧しさを反省したのだった。
その様子を見た釈迦は風に言葉を乗せるようにこぅ告げた。
「西方浄土に座す阿弥陀如来に向かって念仏を唱えなさい」
月蓋は足早に自宅に戻ると言われたとおり、念仏を唱えながら一心不乱に生娘‥‥ではなく、愛娘!!の病気平癒を祈念した。
すると不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに天から一光三尊阿弥陀如来が来迎し‥‥たと思いきや!なんとぉぅ!
いきなり如来の眉間(みけん)の白毫(びゃくごう)から五光が放たれ、その光を浴びた人々はたちまちのうちに快復に到ったのだった。
この後、月蓋は一光三尊阿弥陀如来へも帰依を表し、その御姿を忘れないためにと尊像を彫り上げ、7代500年間にわたって供養した。
‥‥以上は善光寺に伝わる善光寺縁起の冒頭で語られている話となるが、善光寺如来は女性救済の神仏とされる理由の1つにこの縁起に登場する如是姫を救済したことも挙げられる。
皇極天皇に見る蘇生の逸話
善光寺に伝わる話の中で少し特異な逸話がある。
それが現在の善光寺を創建したとされる皇極天皇の話‥‥‥なのだが、この話は確かに奇譚とはなるが、善光寺縁起にも登場するので特段めずらしいというワケではない。
⬆️冷水機の冷水が歯にシミた時の激痛ほど‥噂の皇極帝の御影
皇極天皇は女帝として君臨したが、死後、地獄へ落ちる。その地獄で皇極天皇に出会った人物がいるのだが、お分かりになるだろぅか❓
ちょぃと考えてみるかぇ❓
‥‥‥
‥‥‥
はぃ!残念!ハズレ!
正解は‥‥、その人物こそが秘仏本尊(善光寺如来/一光三尊阿弥陀如来)を大坂の難波津(なにわのつ)から運んできたと伝わる本田善光の子供である本田善佐になる。
本田善佐は急死し、親より先に死んだ罪で地獄へ行く。‥‥のだが!
父親・善光が善光寺如来へ息子を助けて欲しいと必死のバッチで祈念すると、如来は地獄へ行って閻魔大王と交渉し、見事!善佐を地獄から現世に蘇らせることに成功した。
善佐は地獄から出てくる道中、前述の地獄の鬼たちに苦しめられている皇極天皇と出会うことになる。
その姿を見て居てもたってもいられなくなった心やさしき善佐は、善光寺如来へこう告げた。
「私が生き返るよりも、あの方を生き返らせた方が何倍も価値があります。だから私よりあの人を蘇らせてください。」と‥。
心打たれた如来は、なんとぉぅ!皇極天皇まで蘇らせて欲しいと閻魔大王へ告げた。
閻魔大王はそれも承知し、善佐は解放された皇極天皇とともに見事!現世に蘇ったのだった。
蘇った皇極天皇は帝位に返り咲き、世話になった恩人たる本田善佐を信濃国司に任命し、その父・本田善光と如来には新築した大きな建物を贈った。
本田善光はその建物に「善光寺」と名付け、これが今日、善光寺と呼ばれる大寺院の草創エピソードとなる。
以上の話は善光寺縁起にも記される内容のものだが、善光寺如来は女性(皇極天皇)を生き返らせ、さらにその皇極天皇は善光寺を建てた人になる。
このような善光寺縁起にまつわるエピソードが連綿と語り継がれている有り様を以ってしても、善光寺が女性の信仰を集める理由になるのだろぅ。
善光寺の女性信仰の有名なエピソード
濡れ仏と八百屋お七
山門の手前、六地蔵の横には通称で「濡れ仏」と呼ばれ、親しまれている地蔵尊がある。
一説には吉三郎(きちさぶろう)という男が、恋人の八百屋お七(やおやおしち)の冥福を祈るために奉献したと伝わる。
お七は江戸本郷の八百屋の娘とされ、恋人に会いたい一心から放火事件を起こしてしまい、火刑に処されたと伝わる少女のこと。
月岡芳年「松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)」 画像引用先:https://ja.wikipedia.org
なお、この八百屋お七の話は江戸時代、文学や歌舞伎、文楽など芸能など、様々な題材とされ、江戸中に知られる有名なエピソードの1つとなる。
「吉三郎」という主人公の名前は井原西鶴の「好色五人女」で記されるものであり、史実と目される「天和笑委集」によると「生田庄之介」と記される。
「牛に引かれて善光寺参り」の強欲婆さん
善光寺にはいくつもの奇譚が語り継がれているが、その中の有名なエピの1つに「牛に引かれて善光寺参り」がある。
善光寺に参拝に来た人なら分かるとは思うが、善光寺へ到る道中や境内には牛の像が置かれている様子が散見されるが、これはまさにその「牛に引かれて善光寺参り」に因んだものとなる。
牛に引かれて善光寺参り の話
その昔、不信心を抱く強欲で知られた老婆がいた。
ある日のこと、庭先にさらしておいた布を牛が引っ掛け、その様子に気づいた老婆は慌てて牛を追いかけ、気づくと善光寺の立派な御堂の前にいた。
老婆はおそるおそる堂の中へ入ると、内部に安置される如来像の前に見慣れた白い布が落ちているのを見つけた。
老婆は、かの牛は如来様が変化した仮の姿であったことを知り、以来、たびたび善光寺へ参詣したという伝承がある。
以上のように老婆は善光寺如来によって不信心が解消され、以後は極楽往生を遂げたと云われる。
‥‥とまぁ、この話は想定外のことがキッカケとなって、物事が良い方向へ運ぶことの例えとして用いられる。
善光寺で出家して尼僧になった代表的な人物
日秀妙光尼(善光尼とも)
尾張国愛知郡小林村(名古屋市中区)の土豪・山田藤蔵の娘と云われ、その後、吉野城主(愛知県名古屋市昭和区御器所)・吉野右馬允の妻となる。
しクぁし!
ピチピチ街道真っ盛りの道中にある18才の時に吉野右馬允が戦死し、悲しみに明け暮れる中、翌年、夫の供養のために長野(信濃)善光寺へ参詣した。…だから”ピチピチ街道”てなんや
程なくして善光寺如来への帰依を表し、得度を経て尼僧となった。
以来、夫の供養をしながら修行に明け暮れる日々を送ったが、1570年(元亀元年)に正親町天皇より、天下安寧と御代の永続の祈祷を命じられ、祈祷を行ぅ。
この一件以降、天皇から上人号の授与ならびに紫衣の着用が許されると、教化活動のために熱田神宮近くに誓願寺を築き、やがて「熱田上人」と呼ばれるようになった。
以後、長野善光寺の大本願上人、伊勢(おはらい町通り)慶光院の伊勢上人に列して、「天下の三尼上人」の1人として讃えられた。
本田善光(善光尼とも)
善光寺大本願が平成20年に明らかにした記録によると、善光寺を創建したのは尊光上人とし、その尊光上人とは聖徳太子の2番目の妃である「刀自古郎女(とじこの いらつめ)」とされる。(現在の大本願の公式サイトでも「尊光上人」と紹介してい‥‥アはぁん♡)
以上のように善光寺は女性が創建した寺院とされることや、大本願の代々の上人が尼僧であることも古今、多くの女性たちから尊信が寄せ続けられる理由になるのだろぅ。ふぉっふぉっ….
他にも数ある女人信仰が語り継がれる
平重衡の愛妾「千手」の話
上記で述べたのはほんの一例であり、他にも平重衡(たいらのしげひら)が京都木津川で斬首された後、重衡の世話をしていた千手という娘が善光寺へ参拝して菩提を弔った話。
後深草院のコレ!(小指)二条の話
後深草院(ごふかくさいん/第89代天皇)の召人(めしうど/妻のような妻ではない存在の女性)だった二条(後深草院二条)は、26歳の時に後深草院の中宮である東二条院から疎まれ、御所より逐電する。
その後、西行法師に倣い、全国各地の寺院を詣でたが最後に善光寺に逗留し、百万遍の念仏を唱えて暮らしたという話‥‥などが伝わる。
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