善光寺「銅造地蔵菩薩坐像」【重要美術品 】
造立年
- 1722年(享保7年)
像高
- 2.68m
蓮華座
- 91cm
台座
- 1.8m
材質
- 銅製
発願者
- 法誉円信
「銅造地蔵菩薩坐像」の読み方
銅造・地蔵菩薩坐像は「どうぞうじぞうぼさつざぞう」と読みます。
銅造地蔵菩薩坐像の別称
銅造地蔵菩薩坐像には、いくつか以下のような別称が存在しています。
- ぬれ仏
- ぬれ地蔵
- 延命地蔵
「ぬれ仏(濡れ仏)」・「ぬれ地蔵」と呼称される理由・由来
銅造地蔵菩薩坐像は、通称「延命地蔵(えんめいじぞう)」と呼ばれておりました。
1847年5月8日(弘化4年3月24日)に、ここ長野県・善光寺の地域を襲った「善光寺地震」は、善光寺の境内にも甚大な被害を及ぼしました。
それは、この延命地蔵も例外ではありません。
かつて延命地蔵の上には「覆屋(おおいや)」と呼ばれる小さな社が造営されておりました。
しかし、震災によって覆屋が倒壊してしまい、以後、再建されることなく、雨に濡れるようになったため「ぬれ仏」と呼ばれるようになりました。
長野・善光寺「ぬれ仏(ぬれ地蔵)」の歴史
善光寺の「ぬれ仏(ぬれ地蔵)」は重要美術品のひとつでもあります。重要美術品とは、現在で言うところの「有形文化財」になります。
そして、重要美術品に登録されている名称が「銅造地蔵菩薩坐像」となります。
右手に錫杖(しゃじょう)を持ち、左手には宝珠(ほうじゅ)を持っています。
全長は約270㎝あり、右手に「錫杖」左手に「宝珠」を握っています。
ぬれ仏は日本各地を礼拝した晋光寺(長野県上水内郡飯綱町)の「法誉円信(ほうよえんしん)」が、奉納完結を祈念して1722年に造ったと言われています。
造立の理由は、巡拝者を供養するためだと云われておりますが、一説では、恋人を求めて放火し、江戸の大火事の元となった「八百屋お七」の冥福を祈って造立されたとの伝説もあります。
また、そのことから「八百屋お七のぬれ仏」とも呼称されています。
ぬれ仏は穏やかな雰囲気を持つ母性に溢れた顔だちのため、子どもの守護神としても親しまれています。
また、ぬれ仏の右隣には「六地蔵」が並んでおり、2つあわせて優れた鋳造技術で造立されており技術者からの関心も高いです。
ええっ!?地蔵菩薩は閻魔様なの!?
中国では、閻魔を含む10人の王が死んだ人の罪の審判を行うという「十王信仰」があり、これが「地蔵十王経」として日本に伝わりました。
平安時代の日本では、「本地垂迹説」という、神様は仏様の仮の姿であるとする考えが広まり、地獄の王たちも仏の化身だと考えられるようになっていました。
これによると、閻魔も仏の仮の姿であり、その仏とは、なんと、地蔵菩薩だとされたのです!
このような考え方は、現世で悪巧みを働いて地獄へ落ちかけた際、功徳が少しでもあれば地蔵菩薩が閻魔大王に取り入って、極楽浄土へお連れ下さるということで、広く認知されるようになりました。
地蔵菩薩の仮の姿だとされる神には、他にも、愛宕神や天児屋命(あめのこやねのみこと)などがいます。
このように、色々な神や信仰と結びつきながら、地蔵菩薩は日本人にとってもっとも身近な仏様になっていったのです。
お地蔵さまに子供の成長や水子供養など「子供に関しての祈願をする理由」
ちなみに地蔵菩薩に「ヨダレかけ」や「お菓子」を供えて子供の成長の祈願する理由は、水子信仰に起因するものです。
幼くして亡くなった子供は功徳を積む時間がなかったので「賽の河原(さいのかわら/三途の川の岸辺)」へと流されます。..いっぺん死んでみるぅ?(by.地獄少女)
そんな哀れな子たちを救うスーパーマンが地蔵菩薩です。
長野善光寺「ぬれ仏(ぬれ地蔵)」の場所(地図)
「ぬれ仏(ぬれ地蔵)」は、善光寺の三門の麓(ふもと)に座している銅像のお地蔵さまです。
もともとは六地蔵から南側に安置されていましたが、1873年に経蔵に移り、1894年に現在の山門の下へ安置されています。
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