長野・善光寺「本堂」【国宝】

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長野・善光寺「本堂」【国宝】

長野・善光寺「本堂」【国宝】

創建年

  • 不明
  • 640年から642年(皇極天皇年間)
再建年

  • 1707年(宝永4年)
大きさ

  • 梁間(正面):約24メートル
  • 桁行(奥行):約54メートル
  • 高さ:約26メートル
建築様式(造り)

  • 寄棟造り(東西・正面)
  • 妻入り
  • 裳階付き
  • 向拝(3ヶ所)

※撞木造り

屋根の造り

  • 檜皮葺
  • 唐破風付
国宝指定年月日

  • 昭和28年3月31日
ご本尊

  • 一光三尊・阿弥陀如来像
現・本堂設計者

  • 甲良宗賀(大棟梁)
  • 木村万兵衛(棟梁)
発願者

  • 不明
  • 推定:皇極天皇(伝)
  • 徳川幕府(1707年再建時)

善光寺・本堂の構造と配置図

善光寺・本堂の中の地図画像引用先:http://blog.goo.ne.jp/ktemple

外陣(入口or本堂外周)

  • 参拝券・券売機
  • 閻魔大王像
  • びんずる尊者像
  • 親鸞聖人お花松
内陣(プチ奥)

  • 欄間(来迎・二十五菩薩像)
  • 弥勒菩薩像
  • 地蔵菩薩像
内内陣(最奥)

  • ご本尊・一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来像
  • 常灯篭
  • 瑠璃壇
  • 開山・御三卿像
  • お戒壇めぐり
  • 仏画
  • その他、像など

なお、後述しますが「T字型」の「ー」の部分が「最奥=ご本尊安置場所」となります。

「l」の部分が「外陣・内陣」になります。

長野・善光寺「本堂」の見所(見どころ)

外陣

賓頭盧尊者像

善光寺・本堂に入り真っ先に目に止まるのが、ピカピカ~♪ツルツル~♪の像です。

この像の名前を「賓頭盧尊者像」と言い、読み方を「びんずるそんじゃぞう」と読み、「おびんずるさん」「おびんずるさま」などと呼ばれて親しまれています。

善光寺・賓頭盧尊者像善光寺の賓頭盧尊者の像は、300年前に造立された歴史ある像です。

ちなみに、びんずる尊者像は、善光寺だけにあるオリジナルの像ではなく、全国の至る寺院にあります。

びんずる尊者とは、インドの高層の集団「羅漢(らかん)」の1人です。

羅漢とは、インド仏教では、僧侶の最高位を示す位のことで、簡単になれるものではなく、仏教の境地を超えた、遥か境地にいる高層のことを指し示します。

びんずる尊者は、一説にはのウダヤナ王(優填(うでん)王)の家臣でしたが、出家して厳しく苦しい修行を行ったと言います。

説法に長け、他人に反論の余地を与えず、まるでライオンのようだということで、獅子吼(ししく)第一とも呼ばれました。

また、修行の末に「神通力」を身に付けた聖者としても知られています。

しかぁし!神通力を私欲のために使ってしまったために、なぁんと!お釈迦様からキツ~い叱咤を受けることになります。

そこで功徳を積み、自らの行いを改めるために、人々の願いを叶えるべく鎮座されているのだそうです。

びんずる尊者は酒飲み!?

びんずる尊者の像は、一般的に、白髪、長眉(ちょうび)、そして赤っぽい色の体で表現されます。

体が赤いのは、なんと!五百羅漢の1人ともあろう者が、酒を飲みすぎてお釈迦様の怒りに触れ、一時は破門されたといエピソードが伝わっているからだとも言われています。

ただしこれは俗説で、本当は、赤い体は、修行が極まり、体中に生命力が満ち、生気がみなぎっている状態を表しているともされています。

びんずる尊者のご利益・効果

びんずる尊者のご利益として有名なものが、外傷(怪我)などの病気平癒があります。

日本では「撫で仏」として有名です。

自身の外傷を負った部分と、びんずる尊者の身体と照らし合わせて、怪我した部位を摩る(撫でる)ことで、怪我の治りが早くなると云われ、崇敬を寄せています。

したがって、多くの人が撫で撫で~♪するので、ピカピカ~♪ツルツル~♪・・と言ったことになっています。

ただし、クソほど高速で撫でまくったからと言って、怪我が早く治る訳ではありませんのでご注意を。

賓頭盧まわし

実は、善光寺・大勧進の賓頭盧尊者の像は、他の寺院で見かけることない、特殊な造りになっており、カラクリがあります。

そのカラクリと言うのが、なんと!台座ごと動かすことができるのです。

善光寺・賓頭盧まわし例年、1月6日に「賓頭盧まわし」と呼称される行事があります。

この行事では、外陣・入口付近にある「妻土台」の周囲を賓頭盧尊者の像を引き回します。

この時に、別途、授与される「福しゃもじ」で、びんずる尊者の身体を撫でて、1年の健康祈願と無病息災をお祈りします。

妻戸台

善光寺・本堂の正面の階段を上がると、正面に高欄(こうらん/手すり)が据えられた舞台が見えます。
この舞台にはちょっとした由来があって、何でも時宗の開祖・一遍上人(いっぺんしょうにん)の弟子「他阿上人(たあしょうにん)あタァ!!」が善光寺に参拝した際、その弟子たちともに、この舞台で「踊り念仏」を奉納したそうです。
ただし、現在のこの舞台は他阿上人たち一行が踊った舞台ではなく、その舞台を再現したものが外陣に置かれているものだと思われます。
実は時宗と善光寺とは深い繋がりがあったことは後世ではあまり知られていません。
時宗の開祖である一遍上人は、若かりし頃、人妻に恋をして恋愛関係になり、その主人と争うことになります。
しかし一遍上人は、15歳の時から僧侶になっていましたので、罪の意識からの許しを乞うために善光寺に詣でることになります。
この善光寺参拝を機に、自らが生まれ変わりを感じるようになり、時宗を開くキッカケになったことはあまり知られていません。

親鸞松(親鸞聖人お花松)

1204年(元久元年)、比叡山の僧侶たちは専修念仏の停止(念仏だけを唱える修法の停止)を訴えて闘争を起こしました。
この話に南都の有力寺院「興福寺」の僧侶たちが便乗してさらに専修念仏の停止を朝廷に願い出ました。
「親鸞や法然」たちは弟子たちの署名を集めて朝廷に反訴しましたが、この時、朝廷に中枢にいた後鳥羽上皇は熊野へ旅行中でした。
その間、後鳥羽上皇の奥方数人に説法を説いて挙げ句の果てに尼僧として出家させた僧が親鸞と法然の弟子の中にいました。
この話を耳にした後鳥羽上皇は即座に比叡山の僧侶たちの専修念仏の停止を聞き入れ、さらになんと!親鸞と法然に流罪を言い渡し、さらに奥方を勧誘した弟子たちに死罪を課しました。
この一連の騒動を「承元の法難(じょうげんのほうなん)」といいます。
この騒動で親鸞と法然は僧籍までも剥奪され、親鸞は越後(新潟県)へ、法然は土佐国(四国)へ流されました。
その後、後鳥羽上皇から代が代わったこともあり、1211年(建暦元年)に順徳天皇から京都へ戻る許しが出ます。
しかし、自らには妻と子供がいたため容易に動くことが叶わず、その3年後の1214年(建保2年)、親鸞はいよいよ越後を出て、同様に許しを得て京都にいる法然のもとを目指して旅を始めます。
この旅の途中で親鸞はこの長野・善光寺へも立ち寄り、約100日間、布教活動をしたと伝えられています。
この時、親鸞は善光寺・本堂に立ち寄り、松の枝をひと枝、お供えしたそうです。
この伝承が善光寺には今も伝えられており、親鸞が数百年前に松の枝を供えたように現在でもそれを受け継ぎお供えされているとのことです。
そんなことからこの本堂・外陣の入口、妻戸台に供えられた松は「親鸞松(親鸞聖人のお花松)」と呼称されています。

善光寺に残る親鸞聖人の軌跡「親鸞聖人が松の枝を手に持った像」

また、善光寺の境内には親鸞聖人が松の枝をひと枝手に持った銅像が立てられています。

このように一時的にでも親鸞聖人が善光寺に籍を置かれたことを記念した像でもあります。

善光寺と親鸞聖人とは、実は深い繋がりがあったということになります。


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内陣(プチ奥)

欄間

「欄間」とは「らんま」と読み、意味合いは、天井付近の壁ぎわに形成されたスペースのことです。

善光寺・本堂の内陣の欄間には、金色の菩薩が掘られた彫刻が存在し、この彫刻は「夜になると浮かび上がる」とも噂になっているようです。

詳しくは、内陣(プチ奥)と、ご本尊が安置されている「内々陣」の間に「赤い柱」が立っています。

善光寺・欄間この赤い柱に囲まれた天井近くの「欄間(らんま)」には「来迎・二十五菩薩像」と言う菩薩像が彫られています。

二十五菩薩像

善光寺・二十五菩薩像画像引用先:http://ameblo.jp/bagel-0212/

この「二十五菩薩像」は、「金箔押し」と言う作法を用いて描かれており、25人の菩薩が雲に乗っている来迎(らいごうの姿が彫り描かれています。

※来迎とは=菩薩が大勢の手下(天女や仏)を雲に乗せて引き連れて来ること。

さらに、背景が黒色ですので、夜になると、怪しく光輝き、本当に浮かんでいるように見えます。

ちなみに「金箔押し」の作法とは、金箔を用いて描く作法のことです。

夜にこれを見た参詣者たちは、極楽浄土へのお迎えが来たと、大変ありがたがったことでしょう。

比丘形の像と蓮台

なお、この欄間には、二十五菩薩像の他に「比丘形(びくぎょう)の像」と、誰も乗っていない「蓮台」が彫られています。

※比丘形とは=僧侶の姿をした仏のこと。

蓮台は、秘仏となっているご本尊の阿弥陀如来が立つ場所として造られたと言われていますが、現在は参詣者が極楽浄土へ向うために空けられた席だとも言われています。

また、欄間の左右の端には、これも金色に輝くたくさんの観音像があります。

これらの金色の観音像は、西国・坂東・秩父の観音霊場のご本尊となりますので、善光寺は霊場巡りの番外札所に指定されています。

内々陣

御三卿の間

御三卿の間には、「御三卿(ごさんきょう)」と呼称される像が安置されています。

御三卿とは、その言葉の通り、3人の善光寺の創建に関わった人物のことです。

その人物とは、本田善光とその妻の「弥生(やよい)」と息子の「善佐(よしすけ)」の3人です。

善光寺・御三卿通常、寺院の本堂には、ご本尊と脇待を祀るのみで、開山した当人とその家族までもを祀ることはなく、本堂とは別にお堂を造って、そこへ祀るの通例です。

しかし、善光寺に御三卿が尊崇を集めてお祀りされているのは、もともと善光寺が善光一家の家宅であったからに他なりません。

また、神仏習合が確立される以前から、善光寺が建立されていたと言う証拠の1つとも言えます。

善光寺本堂・内々陣「瑠璃壇」

常燈明

善光寺の本堂の最奥の内々陣には、正面から見て、左奥に「瑠璃壇(るりだん)」があります。

瑠璃壇とは、分かりやすく言うところの「仏壇」のことです。

この瑠璃壇の逗子の中に、ご本尊である善光寺如来がお祀りされています。

他にも、瑠璃壇の前には「3つの六角形の燈明(とうみょう)」が置かれています。

善光寺・本堂この3つの六角形の燈明は、善光寺が当地に創建して以来、いっさい火が消されることなく灯され続けています。

実は、この火が過去に1度消えかけたことがあるそうです。

その時の話がこんなお話です。

善光寺を創建したとされる「本田善光(よしみつ)」が、善光寺のご本尊の如来さまを、おまつりしている時に、ウカツにも燈明の油を切らしてしまい、なんと!火が消えてしまったそうです。

火が消えたのを見た善光は、慌てふためき、右往左往しますが、ここで

奇跡が起こります。

なんと!善光寺如来さまが、突如、善光の前に現れて、御身の眉間に生えた、長い白毛から円形の塊になった光を取り出したのです。

そして、その光で再び、燈明に火をつけたそうです。

その後、善光寺如来は善光に、こう告げたと言います。

「この常燈明の明かりを見た人は、地獄・餓鬼・畜生の3つの世界へは行かせずに、必ず極楽浄土へ導きましょう」

・・と。

以上のことから、1400年以上もの間、人々がこの灯火を守ってきたのは、善光寺如来さまによる「ありがたい灯り」であったからに他なりません。

善光寺・本堂の御本尊「一光三尊・阿弥陀如来像」

善光寺の本堂「瑠璃壇」には、全ての人々を極楽浄土へ迎えてくれる如来さまが、お祀りされています。

その如来さまこそが、善光寺のご本尊であり、名前を「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来像」と発します。

通称・「善光寺如来さま」と呼称されております。

善光寺・一光三尊阿弥陀如来像↑一光三尊阿弥陀如来像の画像(写真)

善光寺の仏を拝むと、現世、そして来世で幸せになれるとされており、「遠くとも 一度は参れ 善光寺 救いたもうは 弥陀の誓願」と御詠歌で詠まれています。

なお、善光寺如来さまは、阿弥陀如来なので「南無阿弥陀仏」と唱えてお祈りをしましょう。

ちなみに本堂には以下の仏像が安置されています。

  • ご本尊・一光三尊阿弥陀如来像(絶対秘仏)
  • 金銅阿弥陀如来・両脇侍立像の3尊(前立ご本尊/7年に1度、本尊に代わりご開帳)
  • 内々陣:開山である本田善光らの三卿像
  • 内陣:弥勒菩薩と地蔵菩薩
  • 外陣(げじん):びんずる尊者と閻魔王像

なお、一光三尊阿弥陀如来像の像高は約43cm、左脇待(勢至菩薩)約30.2cm、右脇待(観音菩薩)約30.5cmの鍍金、銅造ですが、貫主(住職)ですら見ることは許されないそうです。

善光寺如来さまは、瑠璃壇の最奥の「逗子(ずし)」と呼称される「小ギレイな箱」に安置されています。

ご本尊・一光三尊阿弥陀如来像は過去に1度盗まれていた??

実は過去に、ご本尊・一光三尊阿弥陀如来像に善光寺から何者かに盗まれてしまい、様々な人の手に渡っています。

1555年、本尊を奪わる。
1598年までの約4年間、御本尊が不在
1598年に豊臣秀吉の尽力により本尊が戻される。

仏舎利塔

内々陣の右手前、お戒壇巡り入口の階段の付近には「仏舎利塔(小さい多宝塔)」あります。

この仏舎利塔の中には「釈迦牟尼仏坐像(しゃかむにぶつざぞう)」という、お釈迦様の像が安置さています。

この仏像は銅製で像高:43㎝。1937年(昭和12年)に「日タイ修好50周年」を記念して、タイの国から贈られた仏像で約700年前に造像された仏像になります。

さらに、釈迦牟尼仏坐像が置かれている仏舎利塔の上の層は、お釈迦様の遺骨が入った「仏舎利(ぶっしゃり)」になっています。

この仏舎利は1938年(昭和13年)にタイから寄進されたものです。

また、釈迦牟尼仏坐像の真下の台座に注目してみると「牛の姿」が彫られています。

この彫刻は「牛に引かれて善光寺詣り」と呼称される、善光寺の伝記に因んだ彫刻となります。

牛に引かれて善光寺詣り画像引用先:http://plaza.rakuten.co.jp/officemizuno/

牛に引かれて善光寺の詳細は以下の別ページにてご紹介してます。

長野・善光寺と牛の由来!「牛に引かれて善光寺まいり」の意味とは?


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善光寺・本堂の歴史・由来

長野県の中腹に位置する善光寺は、古くから長野県の当地に居を構えており、神仏習合が成る以前から、当地に君臨していたとされています。

神仏習合の影響が無いことから、無宗派の寺院とも言われています。

善光寺の大きな特徴の1つに、現在に至るまでに、なんと!計11回は軽く焼失していると云われております。

善光寺・本堂「焼失年」

809年   焼失
814年  再建
975年、 焼失
その後  再建
1108年  焼失
その後  再建
1179年  焼失
その後  1191年再建(源頼朝)
1246年 伽藍全体が、ほぼ完全に復興
1268年 焼失
1271年 再建
1313年 焼失
1318年 再建
1370年 焼失
1413年 再建
1427年 全焼
1465年 再建
その後、 焼失
1599年 豊臣秀頼により再建
1615年 焼失
その後、 再建(仮堂)
1642年 参道の町々共に焼失
1692年 再建
1700年 焼失
1707年 再建・・現在に至る

以上、これほど焼失している寺院が日本に存在しないことから、古くからこの地方の人々は「善光寺は呪われている」と騒ぎ立てたようです。

尚、現在の善光寺・本堂の場所は1707年の再建時に移転されてきた場所で、1707年以前は現在の仲見世通りの「延命地蔵」と「松屋旅館」のあたりあったと云われております。

また、現在では「善光寺・本堂」として名前が通っていますが、以前は「善光寺・如来堂」と呼称されていました。

善光寺・本堂「内陣」の拝観料金と拝観可能時間

善光寺・社務所

善光寺・本堂の外陣は、一般の参拝客でも、無料で土足のまま立ち入ることができます。

ただし、内陣への参拝には、拝観料金が500円必要になってきます。

善光寺・本堂の外陣の券売機にて拝観料金を支払うと「内陣券」が発券されます。

この「内陣券」では以下の場所を拝観できます。

  • 「内陣参拝」
  • 「お戒壇巡り」
  • 「善光寺資料館」

なお、「山門登楼(2階部分へ登る)」と「内陣券」の共通券は1000円です。

こちらでご紹介したのは、2018年6月現在の情報です。
変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。

内陣の参拝時間

内陣の参拝時間は、日の出から夕方、夏は16時30分、冬は16時までです。

日の出の時間は、季節によって異なるのですが、善光寺公式ページには「何時から参拝が可能なのか?」についてのカレンダーが掲載されていますので、事前に確認しておきましょう!

早い時は朝の4時過ぎに内陣が開かれます。

境内は無料でいつでも参拝可能です。

【補足】善光寺・本堂の建築様式(造り)

善光寺・本堂の屋根は上から見ると「T字型」になっている?!

善光寺・本堂の屋根は、正面から見ると切妻造りの三角形の屋根をしており、屋根が複雑に絡み合って、2層になったような形をしています。

このような特徴的な屋根の造りを「撞木(しゅもく)造り」と呼称します。

「撞木」とは、分かりやすく言えば、和尚さんがお経を唱える時に、チぃ~ン♪と小さな鐘を叩く、「T字型(丁字型)の棒」のことです。

つまり、語源はココから来ています。

他にも、魚の種類である「シュモクザメ」の頭の形も「T字型」になっていることから、名前の由来になっています。

シュモクザメ

そして、善光寺の本堂を裏側や側面にまわって見上げると、確かに「Tの字」になっているのが分かります。↓

善光寺・本堂の屋根↑善光寺・本堂を上から見た画像(写真)

善光寺の屋根がT字型になっている理由

しかし、いったいなぜT字型の屋根がつけられているのでしょう?

それは本堂の中の構造に理由があります。

本堂の中は、奥から内々陣、内陣、外陣と3つの間にわかれています。

もともとは、内陣だけだったものが、平安時代に参拝者が増えたことから建物が増設されたのです。

ですから、善光寺の本堂は、普通のお寺にあまりみられない縦長の形をしています。

善光寺の本堂が縦に長い理由

善光寺の本堂は、正面の間口が約24メートル、奥行きが約54メートル、高さ約26メートルの縦長のお堂です。

長野・善光寺「本堂」の建築様式(造り)このように縦に長いのは、内々陣、内陣(プチ奥)、外陣の3つに分かれているからだと上述しましたが、内陣の部分には、なんと!148枚もの畳が敷かれています。

もともと善光寺の参拝者は、この内陣の部分に1泊してから、お参りするのが習わしになっていたのです。

そして、その習慣は明治時代の初頭まで続いていました。

つまり、大勢の参拝客が寝泊まりするために、広い内陣が必要だったのです。

向拝の角柱(地震柱)

1847年(弘化4年)に、通称・「善光寺地震」と呼称される、善光寺を襲ったマグニチュード7.5規模の大型地震が長野県で発生しています。

この地震の影響により、善光寺・本堂の角の柱がネジれたそうです。

善光寺・地震柱現在でも、地震の凄まじさを、この柱に見ることができます。

しかし、このような「木のネジれ」とは木の性質の1つであり、自然の湿気や水分、夏の高温などの影響で、年数を経れば出てくるものなのです。

古来から、神社やお寺の建築では、熟練した腕の職人が携わっており、建物を建造する際、木のネジれを計算に入れて、柱のネジれる方向を1本、1本、計算に入れて全体的に調和が取れるように工夫を凝らして造営されています。

以上のことから、単に地震が影響しているとは、言い難い事象となります。

ご興味のある方はぜひ、ご覧になってください。ウフ

「日本一の檜皮葺(ひわだぶき)」

善光寺の本堂のこげ茶をした屋根は、総檜皮葺(そうひわだぶき)です。

つまり、ヒノキ(檜)の木の皮でできています。

善光寺 檜皮葺檜の皮は、油分が多いため雨水をハジき雨漏れに強い特徴があります。

その他に、檜は耐久性があることで知られており、古くから社寺建築において使用されきた歴史があります。

ただし、檜の最大の欠点として、油分が多いのがアダとなり、「火に弱い」と言う側面も併せ持っています。

昭和の大修理(昭和59年~平成元年の約5年間)には、この本堂の大修繕が行われました。

この大修繕で使用された檜の皮は、なんと!総計250トンにものぼったと記録が残っています。

ちなみに、この250トンと言う量ですが、日本で生産できる檜皮の約2年分の量に匹敵します。

とんでもない量です。

檜皮葺に使われる檜(ヒノキ)は、伐採せずに、立っている木から皮を剥ぎとります。

この作業は「檜皮取り」と呼ばれる作業であり、大変な技術を要します。

大変な経験と技術が必要なために、昭和の大修理の時には「檜皮取り」が出来る職人は、日本でたったの7人しかいなかったそうです。

つまり、7人が全員で、力を合わせて善光寺のための檜皮取りに力を注いだのです。

いくら熟練した職人でも、たった7人では期限までに250トンもの檜の皮を剥ぐ(ハグ)のは不可能です。

しかし、それでも職人が剥ぐことにコダわる理由とは、木を完全に伐採しなくて済むので、非常に環境に優しいと言う利点があるからです。

そして、本堂の正面の屋根の下には、見事な装飾の「軒唐破風(のきからはふ)」が見られます。

檜皮葺の深い色に、さりげない金色の使い方が、なんとも厳かで味わい深いです。

終わりに・・

お昼過ぎに善光寺に到着した時には、内陣など拝観時間が定まっているものから拝観しておくと、後々の観光における時間配分を上手く整理することができます。ウフ

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