本田善光とは❓氏族(子孫)は実在するのか❓性別が女性だった説とは❓

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本田善光とは❓

姓は「本田」、「本多」とも書かれることがあるが、正字では「誉田」と書く。

「蔘考本盛衰記」では「水内郡 住人 善光」、鎌倉時代の「平家物語」や室町時代の「善光寺如来本懐」によると「本太善光」とも記される。

ただ、篠崎惟章が著した「東海談」では、古代において「本田善光」のような名前の付け方は例がないと記す。(「本田」は中世以降に見られる)

また、数々の旧記において本田善光のことは詳しい人物像まで明確にされておらず、実在性を問ぅ見解もある。

善光寺小誌に描かれる本田善光と池中から現出する善光寺如来https://ja.wikipedia.org/

水内郡とは?

善光寺の正当な歴史を記したと伝わる善光寺縁起によると、本田善光は信濃国 伊那郡の恒川官衙に務めていた官吏(朝廷の役人)と伝わる。

推古天皇8年〜10年(600年〜602年)に当時の信濃国司に随伴し、当時、大和(奈良)にあった都への上京の途についた。

その折、難波の堀江(現在の大阪市西区北堀江)にある和光寺の阿弥陀池にて偶然にも捨てられていた仏像を見つけて、これを祀りたいと朝廷へ願い出て勅許を得る。

しクぁし!

仏像を自宅(信濃国 伊那郡 若麻績里)へ持ち帰ったものの、貧家だったので祀る場所が見当たらない。そこでとりあえず臼(うす)の上に仮安置して大切に供養した。

するとある日のこと、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに、なんとぉぅ!仏像の台座となった臼から急に五光が射しはじめ、霊験を感得した善光は仏像が無量無辺の尊像であることを知り、自宅を寺として寄進し「坐光寺(ざこうじ)」と号したと云われる。

皇極天皇元年(642年)、現在の善光寺(長野市元善町)が創建されると、この尊像は移され、以後、鎌倉時代を境に絶対秘仏となった。(諸説あり)

なお、本田善光の自宅だった場所は「坐光寺」が踏襲されて現在は「長野県 飯田市 座光寺」と呼ばれる所在地名になり、善光の自宅は規模が拡大し、「元善光寺(もとぜんこうじ)」と呼ばれる天台宗の寺院になってい‥‥‥申す。ジャクァっ(”座光”を表現)

現在、飯田の元善光寺と善光寺(長野市元善町)とを両参りするのが正式参拝とされ、片方のみ参拝した場合、「片参り」などと云われ、お忌みがられる風習もみえる。

「麻績」の由来・意味

若麻績里の「麻績」の意味とは、「麻」は植物の「麻」を指し、「績」は「つむぐ=糸を引き出す」となり、これらを組み合わせた言葉が「麻績」となる。後世の研究によると、本田善光(若麻績東人)が居処した土地は麻の生産地だったとされる。




「本田善光」の名前の由来

「誉田=本田」

善光寺縁起や善光寺の公式では「水内郡 誉田里」に住んでいたことから、誉田=本田を名乗ったと記す。

「善光」の名前の由来

「善光」は「よしみつ」と読む。

名前の由来については、善光寺にまつわる数ある旧記にも僅かに見られる程度であり、依然、未詳とされる。

ただ、阿弥陀経の「無量寿経」の中に説かれる「善因光果(善い行いをしていれば、いつか善い結果がもたらされるの意味)」から由来がきているとも云われる。

別名では「若麻績東人」とも呼ばれる

また、伊呂波字類抄では「伊那郡 若麻績里」に住んでいたことから「若麻績東人(わかをみの あずまんど)」とも称するとする。

本田善光の性別は本当に男性なのか?

善光寺縁起を読み進めると、「本田善光」と書かれた文言が幾つも登場することから、普通の感覚の持ち主ならば男性と人物像を捉える。

しクぁし!

1396年(応永年間)に編纂された「善光寺縁起」は、おかしなことにそれを書いた当人の名前が記されていないにも関わらず、今日まで善光寺の正史を告げる唯一の歴史書として通説となっている。

縁起を見た人々も縁起の中心人物である本田善光その人が男性であるという認識のもと、何ら違和感を抱かない。

しかし、時に真実とは文書とは大きく異なることもある。それがこの本田善光という人物になる。

本田善光は尼僧(女性)だった❓❗️

584年(敏達十三年)のこと、蘇我馬子(そがのうまこ)の命により、当時11歳だった善信尼(ぜんしんに)が、善光寺にて日本初の尼僧として出家し、修行を始める。

懸命に奉仕して信用を築いた善信尼は、やがて馬子のお墨付きを得ることにつながり、587年(崇峻元年)に朝鮮半島の百済国(くだら)に留学し、2年後、帰朝して向原寺(こうげんじ/むくはらてら)の住僧となり、自らが学んだ仏教の教化活動をはじめる。

ちょうど善信尼が教化活動を始めた頃、廃仏派の筆頭だった物部氏の棟梁「物部守屋」は他界し、仏教が広く知れ渡っていた。

こぅして教化活動が進むと、11人もの漢人(あやひと/中国よりの渡来人)の女性たちが善信尼に帰依して尼僧になったが、実はこの11人の尼僧の中に「善光」なる人物がいたとされる。

このことは日本書紀の崇峻三年の条にも「漢人の尼僧」と記されており、善信尼に帰依して尼僧となった「善光尼」は善光寺如来を深く尊信するとともに刀自古郎女(とじこ の いらつめ)に随伴して信濃へ下向し、善光寺に入った。

刀自古郎女は善光寺に入る前、善光寺を創建したとされる女帝の皇極天皇(こうぎょくてんのう)から日本に初めて渡来した阿弥陀如来像を与えられ、その阿弥陀如来像を伴いながらの下向だった。

下向の際に通ったルートとしては東山古道を通り、水内郡 斎食郷(いもいごう/長野)へ到ったと伝わる。

刀自古郎女のことについて付言しておくと、聖徳太子の2番目の妃であり、父は蘇我馬子、母は物部氏の女と云われるが、未詳とされる部分が多い。

しばらくして皇極天皇(こうぎょくてんのう)よりの勅命が下り、刀自古郎女は善光寺の開山、善光尼は善光寺の開基とされた。

2人(刀自古郎女は善光尼)は年齢が近かったこともあり、両者はすぐに打ち解け合ったと伝わる。

やがて善光尼は、日本における三論宗の祖とまで謳われた「慧灌(えかん/生没年不詳)」とも親しい間柄となり、慧灌を通じて聖徳太子とも既知の仲となる。

こうして善光寺に入った善光尼は以後、聖徳太子の孫でもある山背大兄王(やましろのおおえのおう)からも信任を得て、3人の皇子の教育係を賜り、671年(天智10年)にこの世を去ったと云われる。(刀自古郎女は650年に逝去)

‥‥‥とまぁ、今日まで善光寺縁起に描かれる本田善光という人物像とは大きく異なることが記された説となる。

善光寺縁起の成り立ち

そもそも現在の善光寺の正当な成り立ちを記すとされる善光寺縁起とは、著者・発行者は未詳とされているが、通説では平安時代に成立した「扶桑略記(ふそうりゃくき)」にも登場することから、平安時代末期か、もしくはそれ以前に成立したものと見られてい‥‥‥申す。バヒャっ

その善光寺縁起が世間の注目集めるキッカケとなったのが、絵伝(えでん/絵を加えた縁起本)になってからのことであり、その時代こそが善光寺信仰が爆発的に広まったとされる鎌倉時代(1185年~1333年)になる。

ただし、この当時もしくはそれ以前の善光寺縁起は「古縁起」とも呼ばれており、「善光寺縁起」という呼称で一般に広く呼び習わされるようになったのは1396年頃(応永年間/室町時代)に「善光寺縁起」なる縁起本が刊行されてからのことだと云われる。

いずれにしても著者・発行者は未詳とされ、いわゆる町版縁起(まちばん えんぎ/民間の書店が刊行した本)の類いの書物だったとされる。

‥にも関わらず、多くの人々から支持が集め続けられた背景もあり、今日に到っては善光寺の正当な縁起本としてスッカリかりかりカリカリ梅すっぱ!‥てな如くに定着してい‥申す。ガヘっ  どんな度合いや




本田善光の氏族

大海氏(安曇氏)説

昭和38年に太田亮が著した「姓氏家系大辞典」にも本田善光について触れており、なんでも本田善光は大海氏の氏族にて、その大海氏は安曇氏(あずみ)の氏族であると記す。

安曇氏は元来、北九州を支配した氏族であり、諸説あるが結果的に信濃に移り住んだと考えられてい‥‥申す。ギャハっ

現在までの研究では、長野市や小諸市、松本市を中心した周辺地域には「海の民」と称された人々の名前にちなんだ地名が残されてい‥‥‥ます。フェイント

一説に安曇氏は新潟県糸魚川流域で採取できるヒスイ(翡翠)を求めて、はるばる九州からやってきて、鮭を追い求めるうちに長野市や小諸市、松本市などにも住み着くようになったとも云われる。

秦氏説

全国に4万以上も存在する八幡宮の総本宮である宇佐八幡宮を創建したのは朝鮮系の渡来人である秦氏とする説があり、この傍証の素となっているものが、主祭神である誉田別尊(ほんだわけのみこと)の存在にある。

一説に「誉田」は「秦」が訛ったものだとする見解があり、これを正とした場合、本田を誉田とするならば、本田善光は秦氏の氏族である可能性が浮上する。きゃっ

百済王だった説

日本書紀の670年3月の条や扶桑略記(ふそうりゃっき)によると、「百済王(くだらのこにきし)善光(ぜんこう)」が来朝し、大坂難波に住んだと記されており、その「百済王 善光」こそが本田善光のことだとされる。

なお、百済王 善光とは百済の義慈王の子だとされる。

百済王 善光は舒明天皇(じょめいてんのう)の御代(629年〜641年)、当時の国王・義慈王によって兄の豊璋ならびに付き人数人と共に日本へ人質として送られたと伝わる

しクぁし!

斉明天皇6年(660年)に百済は滅亡に到ったが、亡国復興を願って「白村江の戦い」に挑み、これにも敗北すると、百済はおろか朝鮮に帰国することすら叶わず、以後は日本に定住したと伝わる。

その後、官位の授与、加封など、豪族並みの待遇を受け、持統天皇7年(693年)の正月に没したと云われる。

本田善光は実在せず八幡神(誉田別命)だった?

一説に本田善光なる人物は存在せず、「誉田別命(ほんだわけのみこと)」こそが、本田善光の正体であるとする見解もある。

誉田別命は別の言い方では「応神天皇」、つまりは「八幡神」が善光寺如来の権現であるとし、それゆえ、八幡神を源氏の神と習合させて鶴岡八幡宮を創祀した源頼朝卿やその一族郎党、果ては鎌倉幕府や坂東武者までもが挙って善光寺如来を信奉したと伝わる。

これについては善光寺の七味唐辛子で有名な1736年(元文元年)創業の「八幡屋磯五郎(やわたやいそごろう)」は、自社の屋号の由来として次のように伝えてい‥‥‥申す。イショグゥエっ(”磯五郎”を表現)

⬆️八幡屋磯五郎

本地垂跡説による八幡神の本地仏は阿弥陀仏であり、善光寺門前で開業するにあたり、善光寺本尊の阿弥陀如来を連想する屋号を用いたと紹介してい‥‥ます。カっ

本田善光の子孫

実は本田善光には妻と子が居り、妻を「弥生御前」、子を「本田善佐」と云う。現在、善光寺本堂には「御三卿の間」と呼ばれる室(むろ)があるが、ここに現在、「御三卿」とも呼ばれる善光とその妻、子の尊像が奉安される。

本田善佐(ほんだよしすけ)とは?

善光の一家は642年、勅命によって芋井の里(現在の長野県長野市)に新造された寺へ本尊とともに移されることとなったが、その後、善佐は突如として急死に到り、親より先に死んだ罪で地獄へ行ってしまう‥

‥のだが、しクぁし!

息子を思って嘆き悲しむ本田善光の姿を見た善光寺如来は閻魔大王と交渉し、善佐を娑婆(現世)へ蘇らせることに成功したのだった。

しクぁし!

善佐は娑婆へ帰る途中、地獄で思わぬ人物と出くわすことになるのだが‥‥、その人物こそが皇極帝(こうぎょくてい)であり、地獄の鬼たちに苦しめられる彼女を見ていられなかった善佐は「自らよりもあの御人を助けてあげて下さい」と如来へ告げた。

すると‥‥再び、しクぁし!3連続達成(3度目の正直) ..なんの話や

心優しき善佐の気持ちを汲んだ如来は2人の助命を閻魔大王へ請ぃ、なんとぉぅ!2人とも現世に蘇ることが許されたのだった。

こぅして生き返った皇極帝は帝位に返り咲き、自らを助けてくれた善佐には信濃国 国司の職を授け、本田善光夫妻には新たな家を贈り、本田善光一家は如来と共に新造された家へ引っ越すのだった。

これが642年のことであり、引っ越した場所というのが現在の長野県長野市元善町となる。当時、「芋井郷」や「芋井の里」の呼ばれた場所だった。

(ちなみに室町時代末期に成立した「塵添埃嚢抄(じんてんあいのうしょう)」によると、「伊那郡 小泉庄 妹井郷に本田善光と云ふものあり」と記す。)

こぅして自宅の規模が大きくなったことから「お寺」兼、「自宅」にすることとなり、本田善光の「善光」をとって「善光寺」と名付けた。

‥‥‥以上の話は善光寺縁起に記されるストーリーとなる。うきゃ

その後、善佐は14年間、阿弥陀如来像(善光寺如来)を供養しつづけ、この世を去ったと云われる。(父・善光は13年間)

また、善佐にも子孫がいて、その子孫たちは代々「若麻績(わかおみ)」姓を名乗り、現在も善光寺やその子院(現・宿坊)に住持して善光寺と如来像を護り・供養しつづけてい‥‥申す。アヘっ




百済王・敬福 説

新撰姓氏録によると、百済滅亡後に来朝した百済王族の中に「百済王・敬福(きょうふく)」なる人物が居て、738年に陸奥守(岩手県の領主)として史上に登場し、なんでも岩手で金窟を発見して749年、東大寺大仏造営のために採掘した大量の金を聖武天皇へ献納したとある。

この敬福の曽祖父にあたるのが、百済王・善光であるとされる。

若麻績氏

本田善光は、平安時代末期成立の伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)によると「信濃国 伊那郡 若麻績里」に住んでいたことから「若麻績東人(わかをみの あずまんど)」とも呼ばれた。

善光寺史によると、善光の子・善佐もまた、「若麻績作留(さる)善佐」と表し、「若麻績作留善佐”東人男”」と「東人男(いわゆる善光の長男の意味)を付け足す例もある。

善佐の子供は「若麻爾」と書かれる点に注目!

善光の子孫たちは現在も善光寺の支院に住持し善光寺や如来像を護り続けているが、不思議なことに善佐以後、15代まではすべて「若麻爾」と記される。

分かりやすく言うと「績」が→「爾」の表記になっているということ。

ちなみに善佐以後の歴代の善光寺別当を務めた大勧進の首長を以下に挙げる。

初代 若麻績東人(本田善光) 6代目 若麻爾国依 11代目 若麻爾利成
2代目 若麻績作留(本田善佐) 7代目 若麻爾高倚 12代目 若麻爾寛膳部
3代目 若麻爾諸身 8代目 若麻爾大国 13代目 若麻爾高雄
4代目 若麻爾意比 9代目 若麻爾東世 14代目 若麻爾正常
5代目 若麻爾当世 10代目 若麻爾広道 15代目 若麻爾時国

15代以降、26代まで「丈部」の姓が見られる。

以後、平安末期より園城寺(天台寺門宗の総本山・三井寺のこと/滋賀県大津市)などの有力僧が首長に座すなど、この頃から天台宗に属する動きがみられる。

江戸時代になると大勧進が創設されるが、やはり、甲府藩主・大老を務めた柳沢吉保の甥(養子)「慶運」、東叡山(寛永寺)の坊官、比叡山の住職などの有力者が首長を務めてい申す。アヒャっ

以後は叡山(延暦寺or寛永寺)から大勧進貫主が選出されてい‥‥‥ます。フェイント

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