長野🐮善光寺(参道)「石畳(敷石)」

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長野🐮善光寺(参道)「石畳(敷石)」

善光寺「石畳]

創建年

  • 1714年(正徳4年/江戸時代中期)
材質

  • 安山岩製(西長野郷路山産)
全長(長さ)

  • 222間:約404m(山門下から本堂前まで)
枚数

  • 7777枚
長野県文化財指定年月日

  • 1997年(平成9年)4月1日
発願者(寄進者)

  • 大竹屋平兵衛(二天門から山門下までの石畳を寄進)
  • 単求(西光寺住職/本堂前の石畳を寄進)

長野県・善光寺「石畳(敷石)」の歴史

現在、善光寺の山門から入口の二天門、そして本堂の前とキレイな石畳が敷かれており、その枚数はなんと!7777枚もあると言われています。

この石畳が敷かれる前は土の道が広がり、参拝者を困らせていたそうです。

現在、善光寺への入り口から本堂まで敷き詰められているこの石畳は、長野市の文化財(長野市指定記念物)に指定されています。

山門から本堂まで敷き詰めらた石畳を一見すると、同じ石畳に見えますが、実は本堂の前の石畳と山門から二天門までの石畳は、寄進した人物がそれぞれ異なります。

つまり、この石畳を寄進した人物が2人存在することになります。




善光寺・本堂前の石畳を寄進した人物

善光寺の本堂前の石畳を寄進した人物は、1713年(正徳4年)に西長野の腰村にある西向寺の住職・「単求(ぜんぐ/欣誉単求)」と云われています。

本堂前の石畳は、横幅1尺5寸(45cm)の石が横に16列にんでおり、長さにすると約7mほどになります。

善光寺・参道前(二天門から山門前まで)の石畳を寄進した人物

善光寺・参道前(二天門から山門前まで)の石畳を寄進した人物は、「大竹屋平兵衛」と言われています。

なお、参道前の石畳の敷き詰め工事は、現在の善光寺の本堂が完成を迎えてから8年の歳月を費やして完成しています。

材質は、安山岩(あんざんがん)と言う火山岩でできており、特段、例に述べるような特徴では無いものの、頑丈で強度がある事から、石壁や石垣、石畳をいった用途に使用されることが多い石です。

善光寺・参道前(二天門から山門前まで)の石畳が出来た経緯(由来)

実は、参道前(二天門から山門前まで)の石畳が出来たのには理由があり、以下でお話するような悲しすぎる伝記が残されています。

その昔、江戸中橋上槙町の石屋・香庄に大竹屋平兵衛と呼称する男が住んでおりました。

ある時、平兵衛は飲酒や女遊びに溺れていた息子を家から追い出したのですが、息子はお金欲しさに家へ戻ってきました。

しかし、平兵衛はその時なんと!戻ってきた息子を槍で串刺しにしてしまうのです。

平兵衛はこの後、死ぬほどの後悔をすることになるのですが、息子が戻ってきた時、息子を泥棒だと思って勘違いしていたそうです。

平兵衛は因果の恐ろしさから善光寺へ参拝し、善光寺の参拝者のためにと息子の供養も兼ねて敷石(石畳)を提供したのです。

えぇっ?!石畳はもともとデコボコだった?!

実は、あまり知られていませんが、この石畳はもともとジャガイモのようにもっとデコボコとしていたそうです。

しかし、数多くの参拝者が訪れたことによって次第に平たくなっていったそうです。

古くなって割れてしまった石畳は入れ替えられているものの、ほとんどの石畳は昔から変わらぬまま敷き詰められており、石畳の全長は約400メートルにも及びます。

石畳を寄進した後の平兵衛ですが息子を思い、出家して「道専」との名前の僧侶になっています。

僧侶になった後の平兵衛は命が尽きるまで息子を思って修業を重ね、生涯を終えています。

なお、平兵衛のお墓は現在も残されており、善光寺の境内の墓地に安置されており、今でも絶えることなく人々が参詣に訪れています。

悲しい由来ではありますが、平兵衛の行いにより今もなお多くの人々が支えられています。

平兵衛のお墓の場所(地図)

平兵衛のお墓は、善光寺の宿坊・「向仏坊(こうぶつぼう)」にあります。向仏坊は仁王門の近くにあります。

善光寺・向仏坊のINFO

・住所:〒380-0851 長野県長野市長野元善町452
・公式URL:https://www.zenkoji.jp/shukubo/list/koubutubou/

善光寺の敷石の場所(地図)

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