御開帳とは?
「御開帳(ごかいちょう)」とは、普段お目にかけることのできなぃ秘仏の仏像などを期間を設けて特別にお披露目すること。
意味合いとしては、単純に「開帳(かいちょう)」のことであり、敬称として「御」を付したものが「御開帳」となる。
なお、開帳の意味合いをWikiで調べると次のように記されてい‥‥‥申す。ウィキュアっ(Wikiだけに)
開帳、原義では、仏教寺院で厨子などに収められている秘仏の扉を開いて拝観できるようにする宗教行事。
ただし、秘仏ではない本尊や宝物に関して行われる宗教行事を指す場合もある。宗教上の意義
開帳と称する宗教行事には以下のものがある。
- 原義ではふだん厨子等に収められている秘仏の扉を一定期間開いて参拝できるようにする宗教行事。
- 転義ではふだん蔵などに収められている宝物を拝観できるようにする宗教行事。
- さらに転じてふだん参拝を許している御本尊であるが、大法会を開催して特別に結縁の機会を与える宗教行事(成田山新勝寺など)
善光寺の場合、前立ち本尊を入れた厨子(ずし)と呼ばれる豪華な箱を持ち出し、特に江戸時代などでは江戸や京師(京都)、大坂などの人口密度が多い大都市へ赴いて積極的に開帳した。
善光寺如来の霊験(利益)は広く知られていたこともあり、人々はその霊験に少しでもあやかろぅと積極的に喜捨(きしゃ/金品の寄付)を行ぃ、御本尊の前で祈りを捧げ、二世安楽、極楽往生を願ぅのだった。
このような御開帳は善光寺のみならず現在進行形で全国の寺院で行われており、御開帳で集まった資金は仏像や堂塔の修繕、寺の維持管理費などに積み立てられる。
善光寺の御開帳とは?
善光寺における御開帳は正式には「善光寺前立ち本尊御開帳」と称する。
善光寺における御開帳とは、早い話が善光寺の御宝蔵(宝庫)に収蔵される「前立ち本尊(重要文化財指定)」を数え年で7年おきに本堂へ移して人々にお披露目し、人々はその姿を拝んで極楽往生を祈願する。
そして、二世安楽の”功徳”をまるで女性を”口説く”かの如く積む‥‥という儀式のことを云ぅ。….どんな度合いや
前立ち本尊は本尊の姿を忠実に模して制作されたと云われ、たとえ前立本尊と言えど、結縁(ご縁を結ぶ)すれば、如来の仏力で極楽往生できると篤く信仰される。
善光寺の御開帳いつ頃から始まった?(善光寺御開帳の起源)
善光寺で初めて開催された御開帳の最古の年代としては、明確にされているもので「1730年(亨保15年)」と伝わる。
それ以後の記録は明確にはされていないが、記録上では不定期に開催されてい‥‥‥申す。ギャヒェィっ
記録に見える善光寺の御開帳の歴史
- 1692年(元禄5年):江戸(回向院)
- 1701年(元禄14年):回国開帳(主宰者;慶運)
- 1740〜1741年(寛保元年):三都開帳
過去の善光寺御開帳の歴史(年表)の詳細については下記ページを参照💘
前立ち本尊は目視できるけど触れない!
開帳された前立ち本尊は、わりと”間近”で目視できるものの触れられるわけでない。マジか?(”間近”だけに)
前立ち本尊の右手につながれた「善の綱(ぜんのつな)」と呼ばれる「五色の糸」が本堂の前に立てられた「回向柱(えこうばしら)」に結ばれ、その回向柱に直接触れることで如来様のお身体に触れたことと同義とされ、二世安楽、極楽往生の利益を授かることができるとされる。
なぜ御本尊が見れない?
善光寺の本尊は「善光寺式一光三尊阿弥陀如来」と呼び、寺伝によると西暦552年に百済からもたらされた日本最古の仏像と伝わる。
善光寺縁起によれば鎌倉時代の頃、如来より託宣を受けた後、絶対秘仏(ぜったいひぶつ)とされ、その代打(訳:代理)として「前立本尊(まえだちほんぞん)」が作られた。
絶対的な秘仏なので、寺の方針が変わらないかぎりは永遠に厨子(ずし)と呼ばれる豪華な箱の中で保管され、一般の目に触れる機会のないばかりか、善光寺の住職やその関係者すらも一切お目にかけることができない存在となる。
御開帳が開催される期間は決まっている❓
善光寺の御開帳は江戸時代より始められた比較的、新しい儀式であり、その期間というのも昭和の時代まで定まっておらず、不定期に開催されてきた歴史がある。
現在では数え年で7年毎の4月から5月に開催されてい‥‥‥申す。パキャっ
御開帳は別名で「御回向(ごえこう)」とも呼ばれる
「回向(えこう)」とは僧侶などが読経によって得た功徳を回りの人々にもさし向ける‥などの意味合いがある。
回向柱を立てて回向を広く行き渡らせる御開帳は特別に「御回向」とも呼ばれる。
御回向は念仏堂にて唱える常念仏が二万日、三万日‥‥とあるように、一定の日数に到達した記念に実施されたり、善光寺の場合、出開帳が終了して如来像がお戻りになった時にその記念に実施されたりした。
御開帳の種類
回国開帳
「回国(かいこく)」とは、多くの国々を巡り渡ること。
善光寺の前立ち本尊は信仰を広げたり、多くの人々に霊験を味わってもらぅため全国各地へ赴いた。
ご存知の通り、善光寺は火難とも深い悪縁があり、過去に数えきれないほど燃えてい‥る。ピクっ
特に1692年(元禄五年)に行った55日間の両国(江戸)回向院の御開帳では1万3000両もの浄財が集まったこともあり、その甲斐あって火事後の伽藍の復興計画が成った。
しクぁし!
本堂および伽藍の再建を進めていた1700年(元禄十三年)のこと、門前街より失火があり、この類焼によって準備していた材料もろとも灰燼に帰した。
その翌1701年(元禄十四年)、復興を目的とした全国津々浦々を遊行する回国開帳がスタートする。これが善光寺にとって初の回国開帳となる。
巡行先は上総を皮切りに関東、東海、関西‥を抜けて、山陽地方、九州へも到り、九州各地を巡業した後、ふたたび中国地方へ戻り、今度は山陰地方へわたった。
なお、この回国開帳を率いたのが、老中・柳沢吉保の甥っ子とされる大勧進所属の慶運だった。
柳沢吉保と言えば、絶対秘仏の善光寺本尊の存在を検分したと伝わる善光寺史上、他に例を見ない人物でもある。
三都開帳
三都とは、およそ江戸時代における日本三大都市「江戸、大坂、京都」のこと。明治以後は「三府」と改称される。
「天下の台所」と呼ばれた大坂や、天皇が住まぅ首都・京都、それに将軍しゃまが住まぅ幕府が置かれた江戸。
これら三都市は日本の経済活動の中心地であり、多くの人や物が流通した。
また、幕府の直轄地だった背景もあり武家屋敷も甍(いらか)を連ね、他国と比べると飛び抜けて人口が多かった。
これら大都市へ出向いて開帳すると大きな喜捨(きしゃ/お布施)が見込めたことから、善光寺では大火事の後など、金銭が必要になった時には積極的に前立ち本尊を大都市でお披露目した。
毎日正午の御開帳
善光寺では毎日正午になると、鐘の音が鳴り響く中、御本尊が奉安される空殿(くうでん)の前に吊られる戸張(とちょう)が上げられる。
この時、戸張が上がるわずかな時間とはなるが、本尊のお厨子(ずし/豪華な入れ物)が収められた金色の光を放つ空殿の姿が拝める。
御本尊は絶対の秘仏だけに空殿をお目にかけれただけでも、感動がこみ上げてくる。キャキャキャっ
知るのは僧侶のみ!毎日行われていた御開帳とは?
上記以外にも江戸時代の善光寺ではなんとぉぅ!毎日、御開帳が行われていたと云ぅ記録が見つかってい‥‥‥申す。アンギャっ
善光寺で毎日行われていた御開帳については下記ページを参照💘
「居開帳」とは?
「居開帳(いがいちょう)」とは、「開帳」に「居」の文字を付け加えて完成された造語ではあるが、その意味は「居」の漢字からも推察できるように「動かずに居る」ことを意味する。
すなわち、平易に「御開帳」のことと同義とされる。
これは明治以前の時代、善光寺如来が大都市へ出張して御開帳する「出開帳(でがいちょう)」が存在したことから、出開帳との区別を付ける意味合いで「居開帳」という言葉が生み出したと伝わる。
一説に清水寺(京都)が1738年に実施した御開帳こそが、御開帳の起源とも云われる。
以後、2009年頃まで「御開帳」と言えば清水寺で執行される御開帳のことを指し、清水寺以外の寺院の御開帳は「居開帳」と呼ばれた。
出開帳とは?
「出開帳(でがいちょう)」とは江戸、京師(京の都)や大坂などの大都市へ出向き、秘仏本尊を開帳することを云ぅ。
現在であれば信越新幹線へ乗車すれば東京から2時間かからずに長野駅まで到着できるが、往時はそんなものなぅぃ。
江戸を例に挙げた場合、皆々、北国街道や中山道、途中で大笹街道を通り、最終的に善光寺街道(北国西脇往還)に到るルートで距離約240㎞、約3日〜5日の旅程のもとに訪れたのだった。画像引用先:https://gokaidou.sakura.ne.jp/
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